風呂と茶室とブリコルール

この間Twitter眺めていたら、こんな記事を見かけました。
日本人の風呂好きは異常!瓦礫でつくった露天風呂に海外メディア仰天


日本人はことに風呂好きです。哲学者の和辻哲郎は島国日本の湿気が日本人を風呂好きにしていると指摘していますし、入浴することによって感染症の拡散も予防できます。温暖湿潤気候は菌の繁殖を許すため、古くから日本では不清潔を「ケガレ」と言って忌み嫌ってきました。このあたりにもルーツはありそうです。

しかしこの簡易風呂、あり合わせの廃材をうまく利用して作られています。僕の実家も下から焚けるようになっていてわかるのですが、火の加減はちょっと難しそうですね。それでも風呂に対する情熱には感心してしまいます。左下にちょこっとバスロマンが見えるし(笑)。
日本人の風呂好きなところを客観的に分析している『テルマエ・ロマエ』なんて漫画もお勧めです。


ところで日本人は風呂好きの他に、「あり合わせの材料でものを作りだす」ことにかけては他の民族の追随を許しません。建築の世界では茶室や草庵などがその典型です。製材した木材ではなく、わざと自然のままの材料を用いて茶室をつくったのは小堀遠州。微妙に「くずす」ところに美を見出したのは日本人ならではの感性によるものです。

金地院茶室「八窓席」 小堀遠州

デカルト的な自然観をもつ西洋の国々に対し、日本の「制御できない」自然観が、「あり合わせの材料で質素につくる」ことへの美学を磨いていったのでしょうか。


話は飛びますが、先日読んだ鹿島出版会から出ているコーリン・ロウ&フレッド・コッタ―の著作、『コラージュ・シティ』に「ブリコルール」なる聞き慣れない言葉がでてきました。以下引用



《ブリコルール(器用人)》は多種多様の仕事をやることができる。しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手を下せぬというようなことはない。(レヴィ=ストロース『野生の思考』からの引用文)

つまりブリコルールとは、「あり合わせの材料で何でも作ってしまう、専門家ではないが器用な人」という解釈で良さそうです。本書ではブリコルール達のつくるものの(ブリコラージュ)のように都市を開発していくための啓蒙をしていくのですが、ここではそれは問題ではありません。

僕が注目したのはこのブリコルールとは、東北で被災しながらもお風呂をつくりあげた人々そのものであり、また質素な材料で茶室や草庵をつくった僕たちの祖先たちだということ。そして何よりたくましいと思うのは、「あり合わせの材料しかない」と嘆くのではなくて、それを「美」にまで昇華させることができた感性です。
この感性は世界に誇れる日本独自のものであり、僕が何かのデザインをする瞬間にも大切にしたいものだと思いました。