『建築の多様性と対立性』(2011)


ロバート・ヴェンチューリ著、伊藤公文訳 『建築の多様性と対立性』 2011,鹿島出版会

ヴィンセント・スカーリーは冒頭の紹介において「これは容易ならぬ本である」との物々しい前書きとともに、そのエッセンスを書き綴る。
彼はコルビュジエヴェンチューリの建築への立ち向かい方を、それぞれギリシアの神殿とイタリアの街並みの対照的な性格になぞらえ、後者に「内部と外部の果てしないつじつま合わせ」と「日常の生活の種々の様相を反映する屈曲」を見出し、それがヴェンチューリにとっての都市の原理だとする。

ここでコルビュジエ=「英雄的(ヒロイック)」なものが挫折した端的な例として、第二次世界大戦時のシュペーアによるベルリン改造計画などが挙げられよう。
シンボリックな形態の建築がナチスプロパガンダに利用、消費され、戦争の終焉とヒトラーの死とともに、挫折したのは歴史が証明している。
一方、ヴェンチューリの建築は様式から出発するも、原理においてこのつじつま合わせ・屈曲等のマニエリスム的言語による既存都市への同調がみられる。

本書ではヴェンチューリの指すこの「つじつま合わせ」「屈曲」(=多様性と対立性)がヴァナキュラー建築、西洋建築史の建築、米国の建築などの豊富な参照を引き合いに出し、いつの時代にも見出されていた普遍的な手法であることを例示する。
例えば第7章では対立性の例となるナポリの二つのヴィラを挙げ、「調整された対立性」と「並置された対立性」の2種類の在り方を説明するが、それはコルビュジエのサヴォイ邸とシャンディガール議事堂にそのまま対応する、といった具合だ。

さらに、モダニズム建築がギリシア神殿のように茫漠とした風景に屹立するオブジェを標榜として人間の理性の体現を謳うにも関わらず、結局のところ風景を混乱させているという事実に対しヴェンチューリは痛烈な批判を加えている。
(このあたりの整理は同著『ラスベガス』(1978)に引き継がれる)

ヴェンチューリは自著作のおける意味について"矛盾し対立するスケールと文脈とを含んだポップ・アートの教訓として、純粋な秩序を求める堅苦しい夢から、建築家を目ざめさせる"(p193)ことが目的だとしており、この言葉は建築におけるポストモダニズムへと引継がれることになるが、その結果として生まれた建築は箱に様式的・機械的な装飾を取り付けた英雄的または自虐的、自嘲的建築を量産したに過ぎず、日本においてはバブル経済の崩壊とともに消えていったのは周知の事実だ。
そして一回りして、都市部で行われる再開発は巨大で画一的な箱を周囲とは無関係に「英雄的(ヒロイック)」に置く作業が延々と行われることになる。

この本に書かれている理論はポストモダン建築の基盤を作り、その終焉とともに有効性を失ったかといえば、僕はそんなことはないと思う。
彼の理論は、今後ますます人口が増え稠密化する都心部において、あらためて見直される価値はある。
著しい都心部での再開発がコルビュジエの「輝く都市」を生み出していくのは資本主義経済の理にかなった作業で、それは一部の組織設計やゼネコンが都市計画に沿って機械的に担えばいいことだが、ヴェンチューリのようにヒューマンスケールな視点における都市の建築はその外野、一般的な建築設計者が多様性にあふれた街路を創出する上で様々な示唆を与えてくれる。

ただし、この「多様性」の読み方を建築における装飾において解決しようとすれば、たちまち80年代の酔狂の二の舞になってしまう。
もっと遡れば、西欧におけるマニエリスム建築はなぜ衰退したかというテーゼも見えてくるだろう。
僕らがこの本の原理を取り扱うのには、慎重に過ぎるということはないのだ。
だからこれは「容易ならぬ本」なのである。