廃墟について


ピラネージ作『ローマの遺跡群』

先日、日本の産業革命遺産として軍艦島などがUNESCOの世界遺産として登録されたというニュースを知った。
世界遺産に認定されれば、維持管理のために「世界遺産基金」から補助金が支給される。建築物や土木構造物などの人工物は建っている限り維持管理コストがかかるため、管理者側からしたら世界遺産認定のメリットは高い。
加えてその建造物の認知度が上がり、世界各国から観光客が訪れるようになり、旅行会社、交通機関、小売店、飲食店、宿泊施設などなど周辺に経済的な潤いをもたらすことになる。
また展望台や遊歩道、幹線道路の整備などに国や自治体の予算が充てられるなど、相乗的に経済が回り出す。

今回認定された建造物は明治時代の産業革命遺産であり、もともと寺社仏閣や景勝地のような観光資源と見做されていない廃墟、それもレンガ、鉄や最初期のコンクリートの構造物である。認定を受けなければ崩壊の危険からいずれ地方自治体や国が除却費用を負担しなければならない。
国際的な基金から補助金が支給され、観光資源と化けさせる世界遺産認定は、その建造物を所有する地方にとって悲願であったことは想像に難くない。


こうしてみんながハッピーな世界遺産認定ニュースに、ひとり沈鬱な面持ちで耳を傾けるロクデナシ、それが僕である。

なぜそんな表情をしているのか、理由を少しばかり書きたい。

僕は廃墟が好きで、錆びた工場の配管やダクト、雑草に埋もれた構造物などにそこはかない郷愁を抱き興奮するという、傍からみると理解できない(されない)ような性癖を持っている。
所有者、使用者に棄てられ、雨風に晒され、剥き出しになった生身の造形は、その役割から解放されたひとつのオブジェとなる。外装や装飾がはがれ、鉄骨やコンクリートの構造体が露出した空間は逆説的に力強さを増す。虚飾の無い純粋な空間が立ち現れる瞬間、それは時として身震いするほどのオーラを放つのだ。
一方で、紛れもなく人が人のために造った人工物が、人の手を離れ、雨に、雑草に、つまりは地球そのものに蝕まれていく。
その情景に対し、ある人は人々の過去の営みに想いを馳せ、またある人は人間の無力さ、人間の夢の儚さを痛感する。やがて土に還るという生命の運命と建物を重ね合わせる人もいるかもしれない。
これらに共通するのは廃墟の発する濃厚な「死の匂い」である。
ゆえに「廃墟」は「建物の死した状態」のみならず、「死のイメージを纏った建造物」とも言える。

こうしたイメージは、建物を擬人化し身体の延長線上に据え置くことで得られる生温かい感覚だ。
廃墟に限らず経年変化した建造物は、身体に刻み込まれた皮膚のしわのごとく表層に深みを与え、その建造物が歩んだ日々を饒舌に物語る。
こればかりは新築の建造物にはない魅力だろう。

このような視座に立ち、あらためて世界遺産として保護され、観光地と化した「廃墟」を眺めてみたときに、どうもシラけてしまう。
人々に忘れられ、草花に埋もれながらひっそりと生涯を閉じようとした建造物が白日の下に晒され、内側に新規に鉄骨を挿入されるという延命措置を施され、見せ物として生きろと言われているような気さえするのだ。
それは屍体標本のようにさらけ出され、内部の秘め事も英語や中国語やハングルなんかの文字でつぶさに明かされ、FacebookInstagramの自撮りの背景くらい小さく収まってしまう。つまり、たちどころに消費の対象と化してしまう。
「廃墟のテーマパーク化」、それは廃墟のもつナイーヴな身体性を感じる人々にとってみれば、磔刑にされたキリストの追体験をするがごとく、苦痛を伴う悲劇なのだ。

廃墟を愛でるというのはアウトサイダーな趣味であって、決して本流ではない。
世界遺産登録に沸き立つ群衆の背後で「そっとしておいてほしい・・・」とこぼすのが僕らアウトサイダーの身勝手かつ真摯な願いである。