伝説の論文

この話は僕が見聞きした事実に基づいているが、インターネットという媒体の都合上、論文著者の名は一部改変していることをあらかじめお断りしておく。


僕がその論文のことを知ったのは学位論文執筆中の2011年、当時アルバイトで出入りしていた某設計事務所の社員で、僕の所属していた研究室OBでもあるA氏に論文のことで相談していた時のことだ。
「河西建雄さんって人の論文、知ってる?」
A氏は僕に尋ねた。知らないと答えると、
「僕はあれを読んで衝撃を受けてね。書いてあることはさっぱり意味がわからないんだけど」
と言って先輩は笑った。
A氏は日本でも有数の建築設計事務所の、特に名の通った設計グループに所属する優秀な先輩だ。その彼が衝撃を受けたという論文に、僕は俄然興味が湧いてきた。
少々調べてみると「河西建雄」なる人物はとある大学で教鞭を執る建築家らしいことがわかった。しかし作品の数は少なく、また僕自身も初めて聞く名で、それ以上の情報は得られなかった。

その論文は大学の修士研究室のキャビネットの中に、過去の修了生の論文と共に保管されていた。丁寧に装丁されたその論文を手にとると、背表紙の割にページ数は少なく、タイトルも「建築の自画像」というやけにあっさりしたものだった。そもそも六文字の修士論文のタイトルなど見たことがない。
とりあえずパラパラとめくってみる。内容は、確かにわからない。まるで理解されるのを拒むかのように、抽象的な言葉が脈打っていた。後半は「付録」と称していくつかのモノクロの図版が載せられていたが、「建築の〜」というタイトルに反して、建築の写真や図面等は一切なく、抽象的な線を並べたような作品や、墨で滲んだ人の顔のような絵が並んでいる。
正直に告白すると、当時の僕には過ぎた代物だった。自分の論文を進める都合もあって僕はそれを理解するのを諦め、卒業するまで思い出すことはなかった。

卒業後、僕は建設会社に就職しアカデミックな話題からしばらく離れていたが、SNS上で知り合った年上の藝大生と河西先生の話題になり、ふと、例の論文が頭をよぎった。何でも河西先生の論文は彼の学部時代、ゼミの学生の間でも伝説のように語り継がれ、しかもほとんど誰も目にしたことが無いという。河西先生自身、自らの修士論文の話題を出すことはなく、何かトンデモナイ論文を書いたらしい、という噂だけが独り歩きしていたようだ。その学生には母校に行く機会があったらぜひとも論文をコピーしてきてほしいと頼まれたが、かくいう僕も、当時理解できなかったあの謎多き論文にあらためて触れてみたいという下心がないわけではなかった。

そんな中、僕のゼミの教授が定年を迎え退任することになり、その最終講義のため大学に足を運ぶことになった。講義後の打ち上げの最中、僕はゼミの後輩と会場を抜け出し、彼の手を借りて例のキャビネットからその論文を引っ張り出すことに成功する。

「なんでこんなものをコピーするんですか?」
コピー機から吐き出されていくテキストに何枚か目を通して、その後輩は尋ねた。僕の行為はよっぽど奇矯にみえたのだろう。無理もない。大学に久々に来たOBが、打ち上げそっちのけで一本の不可解な論文をコピーしたいと言うのだから。
「ただの興味だよ」と僕は言った。
「自分の理解の外にあるものは知らなきゃいけないって、最近思うんだよね」
酔いが回った頭で仔細には覚えていないが、そんなことを話したと思う。

僕らはコピーを取り終えると論文をキャビネットに戻し、会場に戻ろうとする途中、研究室の先輩であるTさんに会った。驚いたことに彼はコピーの図版部分をちらっと見るなり、それが河西先生の論文であることを見抜いた。実はゼミには河西先生の元教え子も二人いて、その一人がTさんだった。
「俺もここに来た時、真っ先に河西先生の論文をコピーしたよ。そんな変な図版、一度見たら忘れないよね」
どうやら考えることはみな同じらしい。Tさんが論文の内容を理解できたかどうかは聞きそびれてしまった。
別の先輩は、
「ああ、あの論文ね。あれはすごいよね、よくあんなものが通ったっていう意味で・・・今じゃ通用しないよ」
と言ってニヒルな笑みを浮かべた。どうやらこの論文が学生の間で有名だったというのは間違いではないようだ。初め不審な顔をしていた後輩もこの度重なる証言から興味が湧いてきたらしく、僕も読んでみます、なんて言い出した。この論文の伝説は語り継がれる運命にあるらしい。


そして今、僕の手元にその伝説の論文のコピーがある。書き出しはこうだ。

「われわれの時代の創造は、やっていこうとする焦燥の意志と、やってはならないと言い含められる日常の抑制と、の共存のなかにある」

冒頭文からして既に論文らしからぬ抽象的な文が踊る。章立ては次の通り。

第一章 建築・・・身体、その高さ、その深さ、建築
第二章 自画像・・・荒野、他者、モザイク、自画像
第三章 建築の自画像・・・建築の自画像、制作について
付録・・・作品図版


別のページをめくってみる。

「われわれが疾走すべき地平は、生み出すべくして生まれる真理の生産への道のりではなく、まるでわれわれのそばにすでに控えていたかのような、存在の気配への盲信の道のりでなければならない。すなわち、気配という入口からわれわれはその道のりへ向かい、疾走するのだ。ここそこから、われわれの身体を延長し、ずっとずっと疾走するのである。」

よくよく読んでも指示語の指示内容が判然としないし、第一、接続語の前後が接続していない。この手の文章を世間では「悪文」と呼ぶのかもしれないが、しかしながらそんなものでひとくくりにできない何かがこの文には潜んでいる。文章全体にわたって響き渡る詩的風情、論拠のみえない推量と断定、極度に少ない参考文献と引用、論理の跳躍、そして不可解なまでの疾走感。
読み物としては確かに興味深く引き込まれてしまう。が、こと論文としてみるとあまりにも破格だ。そして末尾の図版は、人間の原初に立ち戻ったようなアウトサイダーな雰囲気が漂う。絵の巧拙などとうの昔に捨て去っている。「荒削り」を通り越してもはや「岩石」そのもののようだ。


もしかしたら彼は建築と、それをとりまく言説の虚飾に絶望し、荒涼とした砂漠のなかで仄かな光明に手を伸ばし、掴み取った哲学書から純粋に「モノ」そのものを表象する手立てを、内向きの熱狂の中に見出したのではないだろうか。それは血走った眼を思わせる狂気であり、近づき難いオーラを放つが、しかしそれほどまでに彼を奮い立たせ、疾走するまでに駆り立てたものは何だったのだろうか。

僕らは社会の中で常にうわべを取り繕い、体裁を整え、善良な予定調和に向かうべくエネルギーを傾ける。これと同様に、自らの進路が決まる修士論文では着実な手段を講じて論を着地させたいと思うものだが、彼はそんなものには一切見向きもせず、一世一代の狂言回しを披露する。ここにこの建築家の天賦の才が輝きを放つ。
この静かな狂騒の内に「モノ」を現出させる手立てを見出すというのは、なんて幸福なことなのだろう。

やはり僕には、この論文は手に負えない代物だったのだ。