ガンダム建築

機動戦士ガンダム」を知っているだろうか。
かれこれ30年以上続くアニメーションのシリーズで、内容は知らなくても名前くらいは聞いたことがあると思う。

僕は「ガンダム」が結構好きだ。もっと言えばシリーズ全体、外伝的な小作品、小説や漫画も含めたコンテンツに中学、高校とどっぷり浸かり、プラモデルも相当な数を作るくらいには好きだ。作中では「モビルスーツ」と呼ばれるロボットに人が搭乗して戦うのだが、ハイテクなのにある種の泥臭さも感じる作品世界は現実世界と地続きのようなリアリティがあり、他のロボット系のコンテンツと比べても頭ひとつ抜きんでている。
その「モビルスーツ」の代表格が「ガンダム」であるので、SF風のメカニックなものを「ガンダムみたい」と形容する人も少なからずいる。

表題の<ガンダム建築>といえば、高松伸若林広幸、阿部仁史、渡辺誠諸氏らの80〜90年代初頭の作品に対し、その傾向を総称して指す場合が多く、特に渡辺誠氏の「青山製図専門学校1号館」は最もガンダムみたいだと一部の好事家には有名である。頂部の宇宙船のようなギャラリーの造形的インパクトは相当なもので、一見すると忘れ難いものがある。ところで<ガンダム建築>とは一体何なのだろうか。

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アドルフ・ロースは「装飾は罪悪だ」と断じ、ルイス・サリヴァンは「形態は機能に従う(Form Follows Function)」と宣言し、近代建築はゴシック、バロック新古典主義と連綿と続く建築における装飾的意匠を放棄した。
ル・コルビュジエは船や穀物のサイロ、工場といった無装飾で機能主義的な壁面を賛美し、フィリップ・ジョンソンはガラスで四周覆われた透明な記念碑的住宅を作り上げ、ヴァルター・グロピウスによって「国際様式(インターナショナル・スタイル)」と命名された鉄とガラス、コンクリートによる無国籍的な建築が世界を席巻し、都市の風景は一変した。こうして築かれた近代建築の代名詞たるモダニズムは、今日まで影響力を保ち続けている。

これに対し60年代以降に流行するポストモダンは、現代的な材料を駆使しつつ、近代建築の透明で平滑な壁面にギラついた装飾を復活し、近代建築が構築したデカルト的均質空間に対するアンチテーゼとして、視覚的に過激な建築を次々に生み出していった。SF映画に出てくるようなロケットや古代神殿のオーダー、神社の鳥居や西洋建築のキーストーンなど、古今東西のありとあらゆる建築や文化的象徴をシニカルかつフラットに並べ、瞬時に消費していった。ちょうどテレビが世界中の風景をひとつの画面に映し出すように、表層のみを剥ぎ取られたオブジェが文化的脈絡と断絶され、混乱した風景に拍車をかけた。この都市と資本のニーズに迎合しつつ皮肉る不毛ともいえるモードは、バブルの崩壊とともに終焉を迎える。

その後、国内の建築においてポストモダン建築もそれ以外の装飾的な建築も「バブル期に潤沢な資金を投じ、投資目的で狂ったように建てられた奇形のハコモノ」として一括りに批判の対象になり、その文化的意義の有無に関わらず屠られていった。この手の言説はそれまでムーブメントの中心にあった建築界内部からも発せられ、「ポストモダンの旗手」と仰がれた隈研吾氏も、90年代中盤には掌を返したようにこの狂騒から脱出している。

以上が日本のポストモダン建築におけるおおまかな筋書きである。

こうした経緯からポストモダンを「様式」と形容するのはちょっと憚られるが、慣習に倣えば<ガンダム建築>は上述のポストモダン建築に含まれる。

ポストモダン建築の中でも、特にSFのような機械的なモチーフをちりばめたものを、誰かがガンダムみたいだ」「ガンダム建築だ」と言い始めた。視覚的類似性に加え、いずれもヒロイック(英雄的)なカッコよさを追求しつつ、より偏執狂的、オタク的ともいえる複雑な表情をつくりだしている。


 

「青山製図専門学校1号館」はちょうどバブルの真っ只中、1990年に竣工した。今にもうごめきそうな油圧シリンダー、鮮やかな赤とシルバーの外装、睥睨するコックピットのような開口部、卵形の貯水タンク、突き出した避雷針を兼ねたマストなどなど、見ているだけでお腹いっぱいになりそうな機械的モチーフに満ちている。
この生粋のモダニストからは眉をひそめられそうな外観をもつビルは、建物として、というより一個のキャラクターとして街に棲みついている。<ガンダム建築>ではないが、浅草にあるフィリップ・スタルクの「ウ○コビル」などと同じく、変なアイコンとして意識に染み付いてしまっている人はそれなりにいるはずだ。

僕はというと、いわゆる正統的な建築の文脈からは外れているが、だからといって隅には置けない「冗談みたいな」面白さを抱えていると思っている。この「冗談みたいな」というのはデザインにおいてなかなかに重要で、例えば広告などは人目を惹くキャッチコピーにジョークを交えることはしばしばあって、中には、打合せ中に冗談を飛ばしてたのがそのまま通ってしまったんだろうなぁと思うようなものも見受けられる。もちろん数ヶ月で消える広告デザインと数十年残ってしまう建築デザインをそもそも同列に扱うのは難しいが、それでも「冗談みたいな」建築は僕らの心に爪を立て、既成概念に揺さぶりをかける。

冗談といってもレベルはさまざまで、ダジャレがコンセプトという根本的なものや、外観の印象からアニメに出てくるガンダムのイメージがそのまま立ち現れたシュールさというのもあれば、外観を構成するパーツにほとんど共通部材がなく、全て3次元データで管理され施工したという実務者からしたら失神しそうな冗談みたいなエピソードなどもある。そんなメタ視点から眺めれば、冗談みたいな<ガンダム建築>の裏に冗談にならないプロの仕事が垣間見え、そのギャップがまたシュールだったりする。
まっすぐに柱と壁を立て、平らな屋根を作ればもちろんそんな困難は少ないが、生みの苦労が少ない建築が人の印象に残ることもまた限りなく少ない。ここで敢えて難題を設定し「冗談みたいな」建築がたち現れる。映画でしか既視感のない金属の塊が眼前に現れることへの驚き、好奇心、そして技術や理想、ひいては人の行為、有機的なダイナミズムに対する感動。これこそが<ガンダム建築>にわれわれの目が奪われてしまう理由ではないだろうか。

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バブル期の<ガンダム建築>は建築内部までヒロイックな原理が働く例はほとんど存在せず、表層に機械的記号を張りつける程度で、建物そのものの外観が貨幣と交換されるべき象徴としてつくられ消費されていた。一部に次世代の兆しが見えたものの、経済状況の変化により未発達なまま放棄せざるを得ず、デッド・テクノロジーとして歴史の暗闇に葬ったのはつい最近のことだ。

海外に目を向けると、年始にNYで見たモーフォシスの「41クーパー・スクエア」(2009)などはテクノロジーを駆使し極めて合理的に作られた<ガンダム建築>だといえるし、コープ・ヒンメルブラウの「リヨン自然史博物館」(2014)なんてのは今にも動き出しそうなダイナミックさがある。アルゴリズムによる自律的デザイン、BIMを初めとした3次元でのデータ管理が徐々に浸透し、3Dテクノロジーによって複雑な形状をもつ建築が海外では次々に実現しつつある現代という時代に、僕なんかものすごくワクワクする。


"41 Cooper Square" Morphosis (2009) via e-Architect


"Musée des Confluences" Coop Himmelblau (2014) via ArchDaily


日本で20年ほど前に死に絶えた<ガンダム建築>が再び出現するかに見えたのはザハ・ハディッドのオリンピックスタジアム案だった(あれはキュべレイみたいだった)。
しかし運営の杜撰さやコスト見積の甘さ、各課調整の不手際を運営側が直視せず、「奇抜なデザインのせいでコストが高い」とか「巨大でおぞましく圧迫感がある」とか有象無象の世論の批判をマスメディアが扇動することで論点がすり替わり、結局うやむやなまま計画を頓挫させてしまった。皮肉なことに、<ガンダム建築>をつくることの困難さを痛感する象徴的な出来事になってしまった。


"Tokyo's New National Stadium" Zaha Hadid (2012) via Zaha Hadid Architects


こうして日本における<ガンダム建築>は再び立ち消えてしてしまったが、いつの日か“Gの鼓動”を感じる<ガンダム建築>が台地に立ち、お台場のガンダムに負けず劣らず人々に驚きを与え、好奇心をくすぐり、末永く愛される、そんな建築が生まれることを夢想しながら、今日も僕は平凡な建築を作っている。


「41クーパー・スクエア」に行ったときの話はこちら。
→ 【ニューヨークの建築、アートめぐり(5日目)

(おわり)