叛逆する平面―知られざる東京都慰霊堂

東京都慰霊堂をご存じだろうか。

東京で暮らしていても縁遠い施設ゆえにその存在を認識している人はあまりいないんじゃないだろうか。かくいう僕も恥ずかしながら2、3年前まで所在すら知らなかった。
最寄り駅は総武線両国駅で、両国国技館江戸東京博物館から少々北に歩いた公園の中にある。公園といっても聖域の類なので園内は落ち着きがあり、普段から散歩をしたり寛ぐ人々を見かける。

慰霊堂の設計者は伊東忠太で、RC造平屋建の本堂は1930年(昭和5年)に竣工した。
もともとは1923年に発生した関東大震災の犠牲者を祀る「震災慰霊堂」として建設されたが、太平洋戦争での東京大空襲による身元不明の犠牲者を合祀するために戦後改名され、園内も現在の形に整備された。現在の平和な東京からは想像し得ない悲惨な歴史の証人である。

この慰霊堂のデザインをめぐって、少々興味深い逸話がある。


当時のコンペ広告 東京都復興記念館

この慰霊堂の設計にあたって、当時、東京震災記念事業協会主催のデザインコンペが催された。
提示された一等賞金は3,000円、現在の物価に換算するとおおよそ350万円。国家的事業の名に恥じない優れたデザインを集めたかったからだろう、審査員には帝大教授を務める伊東も名を連ねていた。
その国家的デザインとして見事一等に選ばれたのは前田健二郎案で、中世西欧の城砦を髣髴とさせる胸壁を有した新古典主義風の基壇の上に、灯台のような灯火台を有する円筒を載せた、さながら「巨大な燭台」といった提案だった。


一等 前田健二郎 東京震災記念事業協会編『大正大震災記念建造物競技設計図集』洪洋社,1925

この前田健二郎なる青年は当時32歳、東京美術学校図案課(現在の東京藝大建築科)で岡田信一郎に学び、逓信省から第一銀行を経て独立したばかりの気鋭のエリート建築家であり、「コンペの鬼」と称されるほど数多くのコンペを勝ち取っていた。

ところがこの燭台に「モダンすぎる」*1とケチがついてしまう。
時は軍国主義にひた走る大正末期、愛知県庁や九段会館のような帝冠様式こそ国家的建築に相応しいと大真面目に語られた時代。西洋建築史ではナチスモダニズムの最たるバウハウスを迫害し、古典主義建築を「偉大なるアーリア人の様式」と喧伝した時代である。この頃の日独伊は建築様式におけるナショナリズムが盛んに叫ばれていたが、日本においては国威発揚の御旗の下、日本風にしなければ格好がつかないという政治的な事情があった。


左:愛知県庁舎 右:九段会館

またコンペ募集時の趣旨では「大正十二年九月一日の大震火災を記念し併せて遭難者の霊を永久に追弔し将来を警告する記念建造物を建設し以って犠牲者の弔祭場となし又社会教化に利用し得るもの*2とだけ書かれており「復興」の意味合いは希薄だったが、これでは辛気臭くてたまらないだろうと元々の設計趣旨にまで批判の矛先が及び、喧々諤々とした議論に発展してしまった。
ここで一旦抜いた刀を鞘を納めるために審査員の伊東が担ぎ出され、日本風の様式でなんとか頼むと懇願され、やむなく設計したのが現在の慰霊堂である。
竣工した照りむくりの唐破風をもつ純日本風・仏教建築風の慰霊堂を見て、前田案を否定したおエライさん達は「アァ、伊東センセイに頼んで正解だったナ」と胸を撫で下ろしたに違いない。


だが、そこで終わらないのが建築家伊東忠太である。


まず目につくのがそこかしこに出現する幻獣たち。伊東忠太が幾度となく登場させる幻獣軍団を散りばめ、厳粛で冷たくなりがちな鉄筋コンクリート造の慰霊堂の印象をユーモラスに溶かしている。
幻獣に注意を奪われつつ中に入ると、白亜の列柱に支えられた格天井をもつ巨大なホールが眼前に現れる。壁に穿たれた天窓から自然光が入る明るいホールの床は座敷ではなく石貼。畳の代わりに長椅子が置かれている。この構成、何かに似ていないだろうか。


ちょっと教会みたいだなぁと思った方、鋭い。

そう、内部構成はカトリック教会に酷似しているのだ。
伝統的に、日本の建築は格天井と天窓の取り合わせをしない。またこの手の広間は東洋では平入りが多く横軸に長手をとる形式が多いが、ここでは縦軸に長手をとるプランを採用し、わざわざ側廊や翼廊まで設けている。天窓はカトリック教会ではステンドグラスが嵌り、側廊には聖人の像や宗教画が置かれるものだが、ここでは震災の悲惨さを語る絵画がセオリーどおり納められている。
それを踏まえて平面図を見るとあら不思議、堂々としたラテン十字プランである。
和洋折衷とはいうが、ここまで隠喩としての西洋をブッ込んできた建築は日本中探しても見当たらないんじゃないだろうか。


1階平面図 伊東忠太伊東忠太建築作品』城南書院,1941,p73

外観は仏教寺院かと見まがうばかりの立派な入母屋造で、舎利塔や狛犬も配されているが、実態は旧東京市保有した無宗教の慰霊施設。そこに「日本風」という注文がつき、いよいよ出自が怪しくなった隙を突いて伊東の想像力はインドを通り越して遥か大西洋まですっ飛んでしまった。
そういった目でまじまじと外観を眺めていると、あざといまでの「日本風」の仮面で覆われた西洋という伊東の皮肉が浮き彫りになってくる。“隠れキリシタン”ではないが、当時のナショナリズムにうわべでは迎合しつつ、平面図で大々的に叛逆する。それもプランを見なければ、そしてまだまだ情報の少ない西洋建築を見慣れた者でなければ気づかないようなレベルで、したたかに遂行する。

この博識に裏打ちされた不敵さこそが伊東忠太という建築家の真骨頂なのだ。築地本願寺のように直球でインドと日本を合体させる例もあれば、東京都慰霊堂のように迎合すると見せかけて叛逆する「ちゃぶ台返し」など決め技は千変万化、それでも多くは破綻を来たすこと無く解いている。まさに天才の所業。ウーン、と幻獣を睨み返しながら唸る。

東京都慰霊堂、知れば知るほど味わい深く興味の尽きない建築である。隣接する「東京都復興記念館」も伊東と佐野利器が手掛けているが、当時のコンペの提案などの資料も展示しており、さらには入場無料という太っ腹な施設のため、こちらも併せて見学することを強くお勧めしたい。

ただ強いて難点を挙げるならば、しんみりしてしまうのでデートにはちょっと不向きだということだ。

*1:都立横網町公園看板より

*2:画像2枚目、コンペ案広告より