看板建築を描くことについて


《蜷川家具店(1930)》

2018年に入ってから、時間を見つけては看板建築の写真を撮り、立面図を起こす作業に没頭している。一体何を始めたのかと疑問に思っている方もいるかもしれないが、決して伊達や酔狂で描いている訳ではない。・・・と言いつつも、狂人は往々にして自分が正常だと信じて疑わないものであり、既に当人は酔狂の渦中にあるかもしれない。ここで少し頭を冷やしつつ今まで考えてきたことを振り返ってみたい。


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「蜷川家具店」千葉県香取市佐原


「看板建築」という言葉をご存じだろうか。

1923年に発生した関東大震災の復興時、和風の長屋にファサードだけ西洋風のものを取り付け、手っ取り早く洋風建築に“擬態”するものが流行した。これを東京大学名誉教授で建築史家・建築家の藤森照信氏が学生時代「看板建築」と名付け建築学会で発表して以来、この呼称が定着している。

木造の在来工法でつくられた町家は耐火性に乏しく、震災時の出火で江戸から続く町家群はことごとく炭になってしまった。この反省から都市防火が唱えられ、大きな通りに面する建築物には耐火材でファサードを覆うことが義務付けられた。もちろん鉄筋コンクリート造なら火に強いが、庶民にはまだまだ手の届く技術ではなかったため、木造の在来工法で建てた躯体にモルタルや銅板等でできた西洋風のファサードを貼りつけた折衷方式が用いられた。こうして表は洋風、裏は純和風という二つの顔を持った看板建築が誕生した。1930年頃のことである。

街路に面していかに目立たせるかといった広告的テーマがファサードを構成するだけに、より複雑に、また斬新にと、職人が競って技巧を凝らし、数多くの秀逸な意匠を生み出した。この手の込んだファサードは決して有名建築家による設計ではなく、その多くが地元、あるいは地方の無名の大工や画家、家主が見よう見まねでデザインを練り上げたアノニマスなものだという。

2016年の秋に初めて訪れた川越で、僕は江戸時代から続く蔵造りの街並みよりも、この洋風のファサードを纏った看板建築にすっかり魅了されてしまった。もともと人目を引くためにハイカラで斬新さを追い求めたファサードも、90年経った今では街並みに欠くことが出来ないレトロな建物として地元の人々や観光客に親しまれ、中には文化財に登録されているものもある。東京の小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」には看板建築が6軒移築され、休日には老若男女問わず幅広い客層で賑わっている。

ただそういった価値を認められている例はごく少数で、家主の死亡とともに相続が放棄されたり、再開発に取り込まれるなどして、人知れず解体されているケースが全国各地で起きている。また一部の好事家がインターネット上で公開している数枚の写真しか当時を知る手掛かりは残ってないようなものも多々あり、藤森氏の『看板建築』*1で取り上げられていた物件も既に半数近くが姿を消してしまった。2018年1月に名作と謳われる「田中家」が解体されたことも、愛好家の間で話題になったばかりだ。

このように断片的で、藤森氏の著書以上さしたるまとまった情報が無いまま急速に喪われていく看板建築を前にして、一時は無力感や虚脱感に苛まれたが、やがて何らかの方法で残したり、現存するものに目を向けさせることはできないかと考えるようになった。


「看板建築の立面図を描く」というアイディアはこうした背景から生まれた。


《すがや化粧品店(1930頃)》

建築は先ず設計図を描き、設計図を基に施工される。実際の建物から立面図を描くというのは、この建築プロセスを遡行する行為だ。これは一度フラットな情報に還元することで、見慣れた建物を不純物や感傷を排し「初心に還す」ことを目的としている。

表現の手段としてスケッチを描いたり写真を撮るといった方法もあるが、描き手の手癖が明瞭に現れてしまうスケッチは普遍的な記録資料としてやや不適であり、また写真というメディアはより現物に即した情報を提供する反面、電線や外壁の汚れ、建物前の植木鉢などが写り込み、視点がぼやけたり意図せざる感傷を引き起こしてしまう恐れがあった。“古き良き時代”や“郷愁”といった懐古趣味はともすると“古いものは良い”という思考停止に陥り易く、そうなってしまっては本来の趣旨から外れてしまう。ここではより純粋に建築意匠を鑑賞・評価の対象とするため、ファサード構成とマテリアルの質感のみを抽出した「立面図」が対象建築物を表現する手段として最適だと考えた。流行に左右されず、対象を客体化させるために、この工学に立脚した表現手法は100年経とうと200年経とうと普遍的な強度を保っている。


《三村貴金属店(1928)》

また画法は敢えて19世紀頃の西洋建築の立面図を参考にした。これは「取るに足らない大衆の建物」だと長らく認識されていた看板建築を、半ば強引に建築意匠論の俎上に上げるためのレトリックである、という建前はあるものの、実のところ僕自身のフェティシズムに因るところが大きい。許してほしい。

このファサードを描き起こす作業を通じて、「レトロ」という懐古的・退廃的な文脈で一括りに語られることの多かった看板建築とそのファサードについて、現代のフラットな視点からの再定義・再評価を試みたい。かつての商業建築が自然と有していたヒューマンスケールに即した店舗デザイン、「様式」の再現・解釈・省略・派生の手法、多様性を内包した奔放な構成や細部に目を向ければ、きっと現代を生きる僕らにとっても新鮮な驚きや発見があるはずだ。

2017年7月に石岡で初めて開催された「全国看板建築サミット」、そして今年の3月から江戸東京たてもの園で始まった「看板建築」展(2018)は、看板建築が今まさに省みられるべき店舗併用住宅の形式だということを示唆している。スクラップアンドビルドによってありきたりな再開発ビルやマンションや駐車場になり果てる前に、二度と取り返しのつかない状態になる前に、風前の灯は省みられなければならない。


神田須賀町の街並み
左:1980年代*2 右:2017年
中央の「海老原商店」を残して全て取り壊されてしまった


誤解が無いように付け加えるが、僕は「看板建築はあまねく保存されるべきだ」とは決して思っていない。現代の商業空間のニーズからは程遠くそのまま運用し続けることは困難であり、空間の有効活用の面からも用を為さなければ有用なものに更新されていくのは必然だと思っている。だからこそ記録作業は重要性を帯び、保存活用に関する是非はより多くの人が関心を向けるべきトピックに思う。特に住宅は個人の所有物なのでデリケートな問題ではあるが、地方・地域の歴史的な文脈や、ある程度定まった価値を有する建築物が当事者同士の都合により破壊されていることが、都市全体の歴史的価値を下げ続けている現状を直視しなければならない。今のところ、保存の是非がほとんど問われることがないまま多くの看板建築が最期を迎えている。

また、ひとたび直下型の地震が起こればこれまで戦災にも耐え抜いた看板建築に決定的なダメージを与え、都心から瞬時に消滅させてしまう可能性も否定できない。建築史家の村松貞次郎は都内の建築物を調査した結果「東京には江戸時代の建築物が一切無い」と結論づけた*3が、特に東京は歴史を積み上げられない都市という性格から、三菱一号館美術館などの特殊な例を除き、手間暇をかけて古い建物を再現するということをほとんどしない。ゆえに看板建築の消滅は時間の問題でもある。

たとえこの作業が現代において芳しい評価がなされなかったとしても、50年後、100年後に都市論の俎上で不意に我々の子孫の目に留まるかもしれない。それくらいのスパンに耐えうるものを描いているのだという不遜な自負によって、この作業は粛々と続けられている。

これは波乱に満ちた大正末期〜昭和初期の日本において瑞々しい感性の花開いた大衆芸術の一部を「立面図」という形式に還元する試みであり、現在急激に失われつつある建築の類型をひとつの切り口から記録する都市建築の考現学である。


作品はInstagramにて公開中
https://www.instagram.com/biblio_babel/?hl=ja

*1:藤森照信(1988)『看板建築』(都市のジャーナリズム)三省堂.

*2:同.pp12-13.

*3:村松貞次郎(2005)『日本近代建築の歴史』(岩波現代文庫)岩波書店. pp275-276.