旧坂本小学校解体前見学会レポート
先週末はTwitter近代建築界隈で話題になっていた台東区下谷にある旧坂本小学校の解体前の見学会に行ってきた。
『旧坂本小学校』は下谷区入谷尋常高等小学校新校舎として1926年竣工、鉄筋コンクリート造3階建てで、設計者は阪東義三(東京市営繕課)、施工者は長谷川精二郎と伝えられる。*1「復興小学校」とひとくくりにされることも多いが、関東大震災以降の土地区画整理事業の対象区域外だったので正確には「改築小学校」と分類されるのだそうだ。
プランはコの字型で、中央に屋外運動場を備えている。片廊下型で教室群は全て屋外運動場に面して配置され、劇場のように中庭を囲んでいる。ちなみに復興小学校の配棟計画はコの字の他、L字、ロの字のいずれかになっていることが多い。
昇降口に入ると、正面の三連の尖頭アーチを抜けて屋外運動場に繋がる。この三蓮の尖頭アーチは、エントランスと同じ軸線上に配置され、視線を中庭へと誘導すると同時に、通風と採光を確保している。形態はドイツ・オーストリアなどの東欧圏で流行していた表現主義風で、目地のないシームレスで彫刻的なフォルムが特徴的だ。分離派建築会メンバーの同窓生である阪東義三ならではといえる。
また外観で特徴的な階段室のパラボラアーチは、復興小学校ではしばしば用いられてきた。写真右は在りし日の九段小だが、坂本小では九段小のように時計台を兼ねる訳でもなく、朴訥で不穏な表情を見せる。
設計図の立面図では縦方向が通ったデザインであったことから、着工後に何らかの理由でデザイン変更されたとみて良さそうだ。
屋上から見るカマボコ型(ヴォールト)の屋根。曲面屋根の宿命として汚れやすいというのがあるが、出隅に水切りのための段をつけていたというのは初めて知った。このヴォールトはそのまま内部空間にも露出し、余剰空間はやや使いにくそうな物置になっていた。
講堂は現存している最古級のもので、こちらは鉄骨造。トラスで組まれた壁柱が突き出し、その隙間に大開口を設けている。
この講堂のファサードはRC造校舎との連続性に配慮しているが、よく見ると本体とはやや趣が異なり、円柱とエンタブラチュアからなる神殿風にまとめられている。特に柱は付加的な装飾であるため、エンタシス(円柱の下部又は中間部から上部にかけて細くなっている柱)のようにも見え、神殿的な性格を強調している。
なぜ学校に神殿?と思ったが、内部壇上の重厚な扉に注目いただきたい。こちらは「奉携所」と呼ばれる、天皇、皇后の御真影を掲げた場所だったという。
大正期以降、日本の教育現場において天皇の影響力を強めるべく、奉安殿が設置された。奉安殿とは、天皇の御真影や教育勅語の謄本を納める施設で、旧坂本小にはこれに類する「奉安庫」に加え、御真影を掲げた「奉携所」が講堂に設けられた。講堂デザインに神聖さを象徴する神殿の形式を取り入れたとすれば一応辻褄が合うな、と勝手に想像してしまった。
奉携所の三方枠には雷文があしらわれ、扉には銘木の一枚板が贅沢に使用されているが、それだけ重要な場所という位置付けだったのだろう。
西・北・東の校舎の内、西側校舎が最も原型を留めていた。廊下側には欄間付きの木製引戸、木製窓がそのまま残り、RCラーメン構造の特長を存分に生かした開放的なプランニングとなっている。
階段はモルタル洗い出しの人造石仕上げ。丸みを帯びたデザインは児童の安全性に配慮しているのだろう。
音楽室の後部にはタイル貼りの手洗場が設けられていた。なかなか手の込んだタイルワークだ。
室内を一巡し、外観撮影のために外に出た。
外観を撮影していると、エントランスの片隅にひっそりと記念碑(校長名碑)が残されているのに気づいた。表現主義の薫香に満ちたなだらかな稜線で立ち上がったコンクリートの台座、月桂樹のレリーフでピンときた。これは戦前のものかもしれない。
室内の展示資料によると、桜花に「入谷」の文字が浮かぶデザインは、昭和26年に「坂本」に改称されるまで使用されていた。つまりこちらの碑(写真中)は入谷尋常高等小学校時代のものである。さらに側面には金属製の解説文があった。一部欠落した部分を除き、読み取れる部分を転記してみたい。
本校ハ明治三十二年七月ノ創立ニシテ年ヲ閲スルコト二十有八年
大正十四年十一月二十日改築起工仝十五年十一月十五日竣成ス
記念塔ハ𦾔校舎校庭ニ建設セシモノナルガ改築校舎落成ニ際シ其
一部ヲ改造シテ新𦾔記念ヲ表スル為此ニ移セシモノナリ
大正十五年十一月十五日
東京■入谷■■■學校長 松田久稔 誌
校舎設計技師■學士 阪東義三
工事請負人 長谷川精二郎
(拙訳:本校は明治32年7月の創立で、28年後の大正14年11月20日に改築校舎が起工、大正15年11月15日に落成した。この記念塔は旧校舎の校庭にあったが、改築校舎が落成した際に一部を改造し、新旧校舎の記念のためここに移設した。)
この碑の解説文に設計者の阪東義三、施工者の長谷川精二郎の名が刻まれている。こうした校長名碑が戦時中の金属供出対象にならず、今まで残っているのはなかなか貴重であり、ぜひ残してほしい。
都内の復興小学校・改築小学校は老朽化から解体される例もあれば、旧十思小学校(中央区)のように「十思スクエア」としてコンバージョンされ再活用される例もあり、復興小学校は誕生から100年を目前にして岐路に立たされている。それでも当時最新鋭であったRC技術で100年もつ躯体は現代建築よりも長寿命、適切な補強でまだまだ延命できる可能性は残っている。
この旧坂本小学校は団体の積極的な関与により、元在校生によるコメントが書き込まれるイベントが行われた。建物の壁という壁に書き込まれた昔を懐かしむコメントは、建物が生きて使われていた当時を生々しく謳う。これだけ沢山の人に愛されてきた建物が無くなってしまうのは、当事者でなくともやはり寂しい。
都内には廃墟になってまだ活用の目処が立たない復興小学校が残っている。これらの有効な活用方法と適切な運用がなされることを願ってやまない。
おわり