藤森照信氏講演会「辰野金吾と東京駅」レポート

 

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図1.東京駅(1914)

2019年1月26日(土)10:30~12:00、東京駅構内の東京ステーションギャラリー2階にて連続講座「東京駅で建築講座」の第2回、藤森照信氏の講演会が催された。題して「辰野金吾と東京駅」。元東大藤森研OBの柳井良文氏の紹介によりこの回を受講する機会を得たので、ここにその講演会の記録をまとめることにする。(以降敬称略)

 

仏文学者辰野隆が語る父親、金吾は「足軽に毛が生えたようなもの」だそうだ。長野県辰野村の庄屋からの姓で、「帯刀膳焚」という下級武士の出身であった辰野金吾は、電車に乗っていると、縁のある地名を見るにつけ息子にエピソードを言って聞かせるような人物だった。

唐津藩の英語学校で、高橋是清(後の日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣)が東太郎を名乗り辰野に英語教育を施す。後に高橋を追って辰野が上京し、当時新設された工部大学校に入学する。
辰野家の「人が一やることをニやり、ニやることを四やりなさい」という家訓を守り、大学校時代は人一倍勉学に勤しむが故に、地味な学生時代を過ごしていた。同級生には発明家である高峰譲吉らがいた。四名の造家学科の卒業生、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎、辰野金吾のうち、成績は曾禰、辰野、片山の順だったがJ.コンドルは教授の後釜に辰野を起用。最も才能に秀でた曾禰が選ばれなかった理由は、丸の内の小姓の出という根っからの武家気質で少なからず国家に反感があったとの事で、結局6年間の工部大学校に在席後に、7年間役所勤めをした後、海軍、三菱と職を移す。他にもそれぞれ片山は劣等生であり宮内庁入庁が決まっていたため、佐立は若すぎるという理由により見送られた。ロンドン大学やバージェスの事務所で学んだ後、消去法的に決まった辰野金吾が工部大学校で教鞭を執ることとなる。
 
かの渋沢栄一が辰野のパトロンとなり兜町の建物を依頼する。処女作となった「銀行集会所」(図2)はパラーディオ式、川に面した渋沢栄一邸(図3)はベネチア以外において世界でも純度の高いベネチアンゴシックで造られた。

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図2.銀行集会所(1884)

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図3.渋沢栄一邸(1888)
渋沢は東京を商都とする野望を掲げ、横浜港の機能を兜町に移し、堀の水路を利用した交易の中心地とする計画とした。ベネチアは当時商都のモデルであり、ベネチアの様式(ベネチアンゴシック、パラーディオ等)が参照される。
ところが横浜港の移転について、横浜在住の外国人等の反対により頓挫。三菱の牙城である丸の内で仕事は絶え、やっとの思いで譲り受けた丸の内の北東の外れ、日本橋本石に計画された日銀本店の設計を任される。
 

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図4.日本銀行本店(1896)
日本銀行本店(図4)の設計に際し辰野はジョン・ソーンの「イングランド銀行」や「ベルギー国立銀行(ネオバロック様式)」を参考に、ネオクラシズム、ジョージアン様式を取り入れるも、藤森曰く“柱のプロポーションが中途半端、せっかく設えたドームやパラーディオ風の列柱空間も歩行者から見えず、盛り上がりに欠ける”。設計の巧拙はさておき、地味なのは日本はまだ謳い上げる段階ではない、という意志の現れと受け取られる。
また防禦性への配慮からか、①入口が奥まっている②門扉で外界から閉ざす③周囲に堀を設ける(緊急時に地下の水没が可能)④正面に設えた銃眼(?)のような開口部、といった慎重かつ保守的なつくりから、同僚からは「やはり辰野 “堅固” だ」と揶揄される羽目にあう。
 

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図5.日本生命九州支店(福岡市文学館, 1909)
辰野は50歳で工部大学校の部長を辞し民間事務所を開き、日銀の地味な作風から一転、赤白ボーダーの華やかなヴィクトリアン様式(クイーン・アン様式)を取り入れる(図5)。産業革命以降の発展した都市景観から生まれたこの様式について辰野はその意味を熟知し、“日本はもう謳い上げても良い”と判断したと考えられる。英ノーマン・ショウがこの様式の先達だが、例えば角の塔は目立たぬよう計画されており(図6)、むしろ壁面の連続性に重点を置いている。対する辰野は角の塔をデザインの主眼に据え、象徴的に飾り立てる(図7)。また屋根上の飾りもノーマン・ショウは控えめなのに対し、辰野はゴテゴテと盛る。これがその地域の記念碑たる建築を作った辰野と、街並みの整理に意識を向けたノーマン・ショウの決定的な違いという。

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図6.Richard Norman Shaw "Allianz Assurance Building"(1883)

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図7.岩手銀行本店本館(岩手銀行赤レンガ館, 1911)

ドイツ人鉄道技師フランツ・バルツァーが描いた東京駅初期案は瓦屋根を冠した和洋折衷のもので、複数棟からなる計画だったが、後に辰野がクイーン・アン様式で提案し、一体感や皇居への配慮を盛り込んで幾度と無く修正を加え正式に決定される。決定当時の喜びようは所員の記憶にも鮮明にあり、「これで諸君らに給料が払える」と言い万歳したという。
余談になるが辰野は万歳が好きで、死に際にも妻への謝意を述べた後に万歳をして息を引き取った程だという。

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図8.東京駅(1914)
東京駅は全体をクイーン・アン様式で時代精神を高らかに謳いあげる一方で、部分ごとに作ったまとまりに欠ける建築と藤森は評する。やはり屋根の上にはこれでもかとドーマー窓や塔を載せた賑やかな造りとしている。所員の誰にも設計を触らせなかったという皇族用出入口を設計し、「どうだ、良いだろう?」と誇らしげに所員に見せたが、全員が良いと思わず苦笑が漏れた、とのエピソードすら語られている。
結局最期まで設計が巧いという評価をなされることが無かった辰野だが、学生時代めっぽう強かった相撲よろしく、皇居に向かい大きく広げた東京駅はまさに皇居に向けた横綱の土俵入り、辰野金吾の集大成を作り上げた、と評して講演会は締めくくられた。
 
以上が本講演会の概要となる。
 
講演会の内容は概ね同著『建築探偵の冒険 東京篇』(1989, ちくま文庫)の内、「全町三三五メートルの秘境―東京駅」、「東京を私造したかった人の伝―兜町と田園調布」の各章の内容を下敷きにしていたが、辰野金吾という人を軸に史実や関係者への聞き取り調査によって人物像に肉薄する講演は非常に刺戟的だった。日本初の建築家、かつ建築界の権威という堅い肩書きとは裏腹に、下級武士の子息という出自、勤勉な努力家で地味だった学生時代、時に揶揄もされる決して巧くない作風、東京駅の設計を受注した際の歓喜の様子から、辰野のどこか憎めない人柄が滲み出ている。それは無欠のエリートだった曾禰や、芸術の才に秀でた片山にはない欠点を、士族の矜持と他人の倍の努力で補完し、日本を代表する建築家に登りつめた辰野自身の魅力に拠るところに思われる。「才能が無ければ努力で補え」というシンプルなロジックを愚直に実践した人間の強度を我々は目の当たりにし、その追体験を通して東京駅に昇華されるカタルシスを覚えることができる。こうした背景を知らない一般市民からも辰野建築が今なお愛されるのは、日本の建築を背負って立った一人の人間の生き様や矜持が、彫りの深い建築に滲み出ているからではないだろうか。
 
辰野金吾という人となりと、語り部たる藤森照信氏のユーモアを交えた真摯な研究成果の競演であるこの講演会は大変貴重なものだった。藤森氏が質疑応答する暇も無く足早に立ち去った後も、熱量を帯びた空気がしばらくステーションギャラリーの剥き出しのレンガ壁を温めていた。
 
おわり
 
 

図版出典

図1:筆者撮影、図2:藤森照信『日本の建築[明治大正昭和]3国家のデザイン』三省堂. 1979、図3:『明治大正建築写真聚覧』国立国会図書館デジタルコレクション、図4:「日本銀行本店」Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/日本銀行本店〉、図5:「旧日本生命保険株式会社九州支店(福岡市赤煉瓦文化館)」福岡市の文化財http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/51、図6:Google ストリートビュー、図7:「岩手銀行赤レンガ館」Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/岩手銀行赤レンガ館〉、図8:「東京駅」無料写真素材東京デート〈https://www.tokyo-date.net/etc_tokyo_st2/