五十嵐太郎・菅野裕子著『様式とかたちから建築を考える』を読んで

五十嵐太郎・菅野裕子著『様式とかたちから建築を考える』(平凡社, 2022)

横浜国立大学の菅野先生より新著をご恵贈いただいた。私のような業界の隅で細々と生きる一介のサラリーマンを気をかけていただき恐悦至極、感謝感激、早速背筋を正して拝読したのだが、これまた素晴らしく「素人に容赦ない」内容だったのでここに書き留めておきたい。

本書は先立つ五十嵐太郎、菅野裕子著『装飾をひもとく:日本橋の建築・再発見』(青幻舎, 2021)の原点となる書籍である。前著は日本橋界隈の近代建築の様式、ディテールを仔細に解説した同名展覧会の図録という位置付けだったが、本書はより広範に亘り、国内の近代建築とその引用元となる西洋建築の比較解説がメイン。菅野氏の職場が横浜ということもあり、横浜の古典主義建築の紹介は類を見ない程、具体的な解説が綴られている。

 


本書は1.観察編、2.様式論、3.歴史編、4.図解編の4つの章立てから編成されている。

1の観察編では、様式的に特色のある5つの近代建築にフォーカスし、建築意匠論としての詳説を加える。例えば、露亜銀行のイオニア式柱頭で用いられた四隅に張り出した渦巻きの形状について、元々古代ギリシア建築の出隅部分で用いられたものが、ローマ時代に出隅以外でも使用されるようになった、スカモッツィの建築書に詳解図が掲載され、バロック期にこの表現が好んで用いられた、ということを知った。このような知識は少なくとも私の所持している書籍には見当たらず、一般書で解説されることは後にも先にもまずないと考えられる。

2の様式論は、擬洋風、複製建築、ポストモダンといったキーワードから掘り下げている。一見、バラバラな建築ごとの論考が、「様式」の観点から再編集され、様式の裏に隠された意図を剥き出しにする。

3の歴史編は、膨大な引用から西洋建築における様式の変遷をめぐる。本来ならばここだけで1冊の本にまとめられそうなほど濃密な内容は、大学の西洋建築概論を受講しているようなスピード感があり、うっかりしていると振り落とされそうだ。

最後の4の図解編は、1や前著で紹介された国内の古典主義建築のオーダーにおける柱頭を16個取り上げて、詳解図で細やかに解説している。同じイオニア式、コリント式でも、設計者による違いが一目瞭然であるとともに、戦前までの建築家がこうしたオーダーの意匠に心を砕いたという事実に、改めて感じ入ってしまう。令和の現在では、オーダーを適切に扱った建築を生み出せる建築家も、社会的な要請も絶えてしまった。この図解が一般書に掲載され市販されたという意義は大きい。

 

 

一般書はその筋の素人でも置き去りにされないよう、一般的に知られる言葉を用いて、事物の概要を簡潔に述べるに留まる。広く浅くである以上、踏み込んだ解説が副えられる例は少ない。一方、専門書は読者に一定の知識を有することを前提として多くの言葉の解説が省かれ、よりきめ細かな事実を照らす。

こうした住み分け、言わば読者に対する“忖度”は本書では通用しない。研究者の目から見た驚き、発見、類推、感動が、豊富な資料と経験に裏打ちされた言葉の隅々からありありと伝わり、読み手はその専門領域をめまぐるしく駆け抜ける追体験を通して、建築の知りえなかった見方に肉薄する。頭を空っぽにして読むにはやや不向きだが、より深く古典主義建築を知りたいという知的好奇心旺盛な方にはピッタリとはまるだろう。

本書に通底する思想は、最終章におけるガブリエーレ・モロッリ氏の「人間の目は知っているものしか見ない」という言葉が象徴的に表している。私も日常の仕事の中で知りえた知識により、街の見方がガラリと変わったこともあり、この言葉には大変共感を覚えた。この街の建築の形は、いかに法規と経済性、施工性、メンテナンス性、不動産としての資産価値といった要素に拘束されてできているのか、自身がその場に身を置かなければ知ることがなかった。一方で古典主義建築は、現代の我々からみると遠い世界の出来事に見えてしまうが、つい1世紀前の建築家は真剣にその表現について考えていた。知らなければ見過ごされそうな部分に対する執拗な分析と考察により、古典主義建築への解像度は飛躍的に向上するだろう。

こうした本書の「素人に容赦ない」内容は、古典主義建築とその生み出した建築家に対し真摯に向き合う姿勢の表れでもある。それは建物に対する慈しみ、眼差し、畏敬の念、そして穏やかな讃辞を内包している。 

2人の建築史家が紡ぎだした珠玉の様式論、近代建築の見方をより深く知りたいならば必携の一冊である。私も手元に置いて、何度も読み返したいと思う。

 

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