ラブドールと写真家 ―「LOVE DOLL × SHINOYAMA KISHIN」展トークイベント レポート


出典:WWD


手渡された名刺には「芸術家」でも「アーティスト」でもなく、「写真家」という肩書きが控えめに書かれていた。

「激写」という言葉を生み出し、時代とともに先端を走り続ける篠山紀信氏は、週刊誌のグラビアをはじめ「写真」を媒体に多岐に亘る被写体を撮り続け、活動開始から半世紀経った今でも現役というモンスター写真家だ。
ごく最近にも原美術館で開催された「快楽の館」展(2017)では、ヌードの女性を原美術館の室内外で撮影し、等身大のサイズで同じ場所に配置するという手法で現実と虚構が混濁したセンセーショナルな作品を披露した。

その篠山氏が今度は「ラブドール」を撮影するという。
果たしてどんなアプローチで撮影に挑むのか。被写体に多くを依存する「写真」というメディアを通して、写真家は何を訴えるのか。

2017年4月30日、写真展の会場である渋谷の「アツコバルー」で、美術史家の山下裕二氏との対談があるとTwitterで知った。
早速、学習院大博士課程で身体表象文化学を研究している友人の関根麻里恵さんと、同じく友人で東京藝大でラブドールを用いた修了制作で数々のニュースメディアの注目を集めた菅実花さんと連れ立って、対談に臨むことにした。


「僕はラブドールを撮るの、初めてなんですよ」
こう篠山氏は切り出した。
撮影のために人間の代わりに人形を使ったことは幾度となくあり、また作品としての人形を撮ったこともあったが、以前に撮影した四谷シモン氏の人形とラブドールとの違いについて、前者が「アート」として完成されているのに対し、後者は純粋な「工業製品」であることに興味を覚えたのだという。
ラブドールは鑑賞のための「芸術品」である以前に、男性との性交渉という“機能”を果たすために、極限まで人間に擬態した「工業製品」である。それを篠山氏は「近未来的な写真を撮るのに都合がいい」と評価する。
「『写真』って『真』を『写』すって書くでしょ?だからみんな字の通りに受け取って『写真は真実を写すものだ』と思っちゃう。違うんですよ、写真なんて全部ウソ、ウソつきなんです。で、今回撮ったラブドールもウソでしょ?ところがね、ウソ×ウソ=真実だったりするんですよ」
自身も落語を嗜む篠山氏は軽妙に切り込んでいく。
「それで、あたかも人間に当てるような光や、細やかな仕草を真似させて撮ると、一瞬だけ奇跡のような瞬間がある。そこを逃さず撮るんです」

撮影にまつわる裏話、職質を受けたときの警察との駆け引き、他の現代アーティスト批評なども交えつつざっくばらんに語る篠山氏は、親しみやすさと鋭利な頭脳を併せ持ち、聴衆はその軽妙な語り口と時折垣間見せるプロの眼差しに徐々に呑まれていった。

山下氏から写真と現代美術の関係について尋ねられた篠山氏は「写真を現代美術としてやってしまうとつまらない」と返す。週刊誌の仕事を数多くこなす中で、「写真は生々しさこそが面白い」という結論に達する。これが、あくまで「芸術家」ではなく「写真家」として活動する篠山氏のスタンスだ。


この企画を発案した山下氏は、写真家の人選について「ド真ん中直球でいきたかった」と語る。数々の女優、素人の肖像を世に送り出し、常に時代の先端にいた篠山氏以外に適任が思いつかなかったそうだ。
「この作品集に寄稿するために人を象ったものの歴史について振り返ってみたんですが、縄文時代土偶弥生時代の埴輪、その後の仏像ときて、そこから運慶を除いて、ある程度類型化されてしまうんですね。完全に人の形をしたものを作ること自体、タブーだったんじゃないかと考えるようになったんです」

人の形をしたものに心が宿る。そう考える民族は必ずしも日本人だけではない。世界各地で人の形をしたものにまつわる逸話があり、信仰が存在する。
その禁忌の対象を撮ることについて山下氏は「薄皮を剥いでいくエロス」と形容する。
“禁忌の中にエロスは存在する”とバタイユは言ったが、ラブドールは「人に限りなく近いモノ」であると同時に「性的消費のために作られたモノ」であり、メタレベルで禁忌の感情を誘発する。華奢な体型を有し、現代人好みの顔を研究して作られたこの罪深き創造物は、あまりに美しく、そして官能的だ。


「digi+KISHIN」の映像作品が上映されている展示室の壁には、バラバラになったラブドール達の写真がある。これまで人間を模倣し、愛情の眼差しをもって撮られていた被写体の変わり果てた姿によって、今まで見せられていたものが一転、虚構だと気づかされる。
「最期はこの手でバラバラにしてやろうと思った」と篠山氏は笑う。「撮れば撮るほど、ドールって美しいんですよ。そのうち俺達はこいつらに支配されてしまうんじゃないかって思えてきて、それなら先にバラしてしまおうと(笑)」
これらの精巧なラブドールを製作するオリエント工業には、AI搭載のオファーが絶たないのだという。菅さんから聞いたのだが、既にAIを搭載したドールも存在するそうだ。

まるでSF映画のような出来事が、僕らのすぐ背後に迫っている。これらドールの写真がひたすらに耽美で、同時に胸騒ぎを覚えるのは、篠山氏のファインダー越しに「ウソ×ウソ=真実」が見え隠れしているからではないだろうか。

洗練されたドールが現代人の欲望を映し出す。たとえ虚構と知りつつも人々はそれを求め、やがて現実を凌駕し、より理想的な「ヒト」へと近づいていく。そのずっと後方で、人間は自分たちの模造品の華やかな躍進を眺めることになるかもしれない。

篠山氏の写真は、いつまでも「ウソ」だと笑っていられない近未来の予言を内包する。
ルブタンのハイヒールを履いた彼女たちは、その澄んだ瞳で静かに僕らに問いかけている。

篠山紀信 写真展 - LOVE DOLL×SHINOYAMA KISHIN-』
 日時:2017年4月29日(土)〜 5月14日(日)
    14:00〜21:00(日、月曜は11:00〜18:00)
 場所:渋谷 アツコバルー arts drinks talk
 URL :http://l-amusee.com/atsukobarouh/schedule/2017/0429_4198.php

すっぴん風メイクと建築


XBRAND掲載「美的」記事より

「すっぴん風メイク」や「無造作ヘア」などといった言葉を耳にしたことがあるだろうか。これらは僕ら人間のインターフェイスである顔や頭髪において、女性の厚めの化粧や、男性の整えた髪型に対するカウンターに位置するファッション用語である。
これらは往々にして「自然」や「無造作」をテーマに謳っているが、本当に「無造作」なのではなく、周到に準備された下地の上に成立するテクニックであることはよく知られている。
つまり「すっぴん風」であって「すっぴん」ではなく、「無造作ヘア」であって「ボサボサ」ではない。
その線引きは「一手間加えて洗練させる」といった手続きを経なければ到達し得ない意匠(デザイン)にあるといえるだろう。

建築でも「無造作」「無作為」を目指すデザインは数多くあるが、巧妙にデザインされている例は残念ながらそう多くない。


配管が露出した天井の例

卑近な例でいえば、既存の天井を取り払い配管や配線を露出させる手法は、手軽に天井高さを高く見せ、かつ均質な石膏ボードの天井面を荒々しく表情豊かな天井へと変化させる視覚的効果があり、現代においてカフェやアパレルショップ、カジュアルなオフィスなど至るところで見受けられる。近代建築において隠蔽されるべき建築設備が露出するこのドラスティックな意匠は、反面、うまく処理しなければとても見れたものではない。
(ちなみにこの手法は配管類を塗装しなければならないためコストがかさみ、清掃の手間や空調負荷が増大するなどのデメリットも多い)

また雑居ビル内の居酒屋やカフェの内装で躯体のコンクリートをわざと露出させている場合もよく見かけるが、目に見えてわかるぼこぼこしたジャンカや1㎜以上ありそうなクラックが平然と存置されたりして、建築屋としては「オイオイマジかよ」と思うことも多々ある。

「すっぴん」と「すっぴん風メイク」、「ボサボサ」と「無造作ヘア」という対立は、〈ありのままの状態〉と、前述の通り〈「一手間加えて洗練させる」ことで獲得されるもの〉という対立概念に還元される。
建築の意匠も同様に、一見すると素朴で荒々しい素材の構成を見せる場合でも、野暮に見せないようにつくるには入念に計画を練り、ディテールを詰める(=一手間加える)以外に術はない。

ここで、均質な素材で臓器を隠蔽するモダニズムと相反する「隠蔽しない」意匠であっても、モダニズムと同じ経路を辿らなければ到達できない領域にあるという逆説的現象が起きている点も見逃せないだろう。


「ラムネ温泉」藤森照信(2005)

例えば藤森照信氏のつくる建築はモダニズムとは遠くかけ離れて素朴で荒々しく、時にゆるふわ系で「カワイイ」と取られるかもしれないが、コンセントや照明器具、感知器、消火設備、防火設備をどう処理していたかと思いあぐねても思い出せず、その巧妙な隠蔽方法に思わず唸ってしまう。
モダニズムの厳格な表情と真逆の弛緩しきった表情を見せながら、メカニカルな部分は周到に隠蔽する、
言わば「すっぴん風メイク」的建築なのだ。女子力が高い。

モダニズム以降、建築の「お化粧」に対する批判はあって、仕上にタイルや壁紙を貼ったり、木目シートを使用するのは本質的なことではない、偽装だとする向きは少なからずある。
その彼らがしばしば賛美する安藤氏の建築などはコンクリート自身による「お化粧」の極地であり、石やタイルで仕上げるよりコスト的にも高くつくのだから実情はねじれている。
結局のところ、現代的な材料で、レディメイドのカタログから物を組み合わせて作る以外方法が限りなくない現代建築の事情を鑑みれば、「お化粧」と折り合いをつけて親和性を高めていくのが現実的なところだろう。

僕は彼らを非難するつもりもないけど、デザインに関わる以上、時代がどちらに振れても「すっぴん」ではなく「すっぴん風メイク」を、野暮より洗練を、心掛けていきたいなぁと思うのです。

建築における「コンセプト」と「現実問題」について

昨晩、とある学生から下記のメッセージをいただいた。

>>

初めまして。
私はある大学の学部1年の者です。
突然失礼ですが、どうしても気になることがあるので質問させて下さい。
私は三分一博志さんの建築に対する考え方(動く素材[太陽、水、風など]を発見し、調査し、研究し最終的に建築の中に落とし込む)がとても好きで、自分もこういう思想を元に建築をつくっていきたいなと思っていました。しかし、実際に三分一さんの作品である六甲枝垂れを訪れてみて現地の人に話を聞くと、六甲枝垂れは六甲山の頂上にあり周りの湿度が高い上に建物の外部からの風や水を建物の内部に取り込んでいるため、建物内の湿度が高くなり、さらに夏の室温を下げるために冬にできる氷を貯蔵するための氷室を設置しているため、湿度が常に80%以上になり、室内にカビが生え、困っているとおっしゃられていました。その他にも困っている部分がいくつかあると聞いたのですが、これを聞いて、自分の中で理想の建築と現実の建築とのギャップに対する疑問が生じ、とても迷っています。
(中略)
具体的に言うと、三分一氏に限らず、多くの建築家の方々が各々の思想を建築に取り入れ、各々の思い描いた建物をつくろうとするわけですが、それに対して実際に建物を使用したり、管理する側の人間からすると後に予期しない事態などが起こり、その事態に対応しなければならないという現実があるという点に関して、それでも建築家はコンセプチュアルな建築を続けていくべきか否かということです。

>>


学部1年生というが、僕が1年生の時分にはもっとエゴイズムに溢れ、もっと単純に空間の在り方などといった絵空事について考えていたのだが、この質問を投げかけた彼は建築雑誌を飾る煌びやかな世界と現実とのギャップに直面し、その葛藤を吐露する。まだ恐らく10代の学生の極めて真摯な問いであり、またこの世界に属する誰もが一度は目の当たりにするテーゼでもある。
この無垢な質問に感心しつつ、なぜ僕なんかに質問するのだろうと当惑しつつ(笑) この場にて僕なりの意見を述べさせていただきたい。


まず「コンセプチュアルな建築」と「現実の問題」が彼の中では二項対立として存在し、彼はそのせめぎ合いの中で葛藤しているように見受けられるが、まず大前提としてこれらは対立項ではない。

ものを生み出すときに「コンセプト」は欠かせない。
経験的にいうとデザインは

 1)コンセプトを組み立てる
 2)与条件を洗い出し、整理する、紐解く
 3)形を生み出す

という3つの段階を経る。
これは全てのデザインにおいても言えることであり、逆にこれを逸脱したものはデザインと呼びづらい。
彼の言う「コンセプチュアルな建築」とは恐らく、1)のコンセプトが特に際立ち、現実の問題に対する解決はややおざなりになっているものを指しているのだと思う。

ローマの建築家ウィトルウィウスは建築の三要素を「用・強・美」と定めた。多少の解釈の違いはあれど、基本的にこの3つは時代を超えて通用する原則だ。即ち「用途、利便性、快適性」「構造的強度、堅牢さ」「美しさ、心地よさ」などと言いかえることができる。

彼の前半の話によれば、三分一氏の作った建築「六甲枝垂れ」がカビを始めとした諸問題を抱え、美しく明快ながらも管理者にとっては不都合な建物となっているらしいが、このカビ、そして恐らく結露は、当然ながら建築の寿命を縮める。言い換えれば「用・強・美」の「用(利便性)・強(強度)」が満足されていない状態だ。

極論を言えば、そんな現実問題を直視していないものは建築ともデザインとも呼べない、粗悪品だ、と声高に叫ぶこともできるが、それはデザインに対してあまりにも保守的な姿勢である。要はつまんねーヤツになってしまう。

本当に問題が起こると予想された場合、例えば誘発目地を入れなかったので外壁タイルにクラックが入ったとか、脳天シールが切れたので漏水したとか、ディテールで解決できたであろう努力を怠り瑕疵を引き起こしてしまったのなら設計者に問題があるが、現実には全ての問題を予測し事前に解決できる技術者の方がむしろ少ない。
それでも多くの建築家は、真に作りたいもののビジョンを明確に保持し、建築界に一石を投ずるべく巨視的・微視的な努力を重ね形を練り上げる。いつの時代もこうしたトライアンドエラーの上に、技術の向上は存在する。
かの丹下健三が設計した「国立代々木競技場(1964)」でさえも竣工時から鉄板屋根の漏水に悩まされたと聞く。名建築に漏水の話はつきものだという笑い話もあるが、まさしく前例のないデザインに直面したとき、あらゆる手段を講じて問題の予測おこない、解決に導くべく努力し、それでも起きてしまった問題に対して真摯に立ち向かう、それが技術者の態度としてふさわしいものではないだろうか。

僕は「明快なコンセプト」から発想しつつ「現実の問題」を解決するべく残りの想像力を動員し実現に向け努力すること、それが建築家及び設計者、デザイナーにとって必要な職能だと思っている。
諸条件・諸問題のインテグレーションの先に、本当のデザインの地平が広がっている。
決して「どちらか取ったら、どちらかを捨てなければならない」といった安易な二項対立に陥ってはならない。


こんなところでしょうか。

瑠璃光院白蓮華堂に行ったこと

最近の専らの趣味といえば、建築マップを作成して実際に訪れることだ。
僕が幾人かの友人と作ったマップには、数多の建築家が心血を注いで作り上げた建築が、まるで綺羅星のように光り輝いている。美術作品は美術館に行かなければ目にすることができないが、建築作品は、その多くが外観を見ることが許されており、また中に入ることができる場合も多い。これは歩いて鑑賞できる芸術、会いに行けるアイドルみたいなものだ。
また優れた建築は開かれた芸術作品でありながら、一方で都市と団体や個人を結びつける社会的な意義も担っている。社会と個の狭間で、さらに資本的制約や法令による制限、美学やイデオロギーなど複雑雑多な条件をまとめあげトータルにデザインされた建築は、さまざまな側面からの批評を許容し、歩いて見るだけで脳に心地よい刺激を与えてくれる。
しかしながら僕の場合はその刺激を脳内麻薬のように次から次へと欲してしまう危険な状況であり、執拗に目を光らせて建物を見てしまうというちょっと病的なアレなので、何事も程々が一番だ。

この休日は電化製品と仕事用のシャツなんかを買うために新宿に行くことにした。さっそく例のマップを見ると、南新宿にある寺が目についた。竹山聖氏設計の「瑠璃光院白蓮華堂」。新宿駅から見える大きな看板を目にする度に現物はどこにあるのだろうと思っていたが、マップによると新宿駅南口のすぐ近くにあるらしい。折角なので外観だけでも鑑賞しようと、一駅手前の代々木駅から歩いていくことにした。

新宿マインズタワーの公開空地を抜けると、コンクリートの異様な姿が見えてきた。

 
ワイングラス型に下がすぼまった躯体に長円形の開口部がぽっかり空いている。一度見たら忘れない強烈な造形だ。なんでも住職が示した「白蓮華のイメージ」を再現したという外観は、アイコニックで不敵さすら感じさせる。外壁には一切雨樋や設備配管がなく、屋根の雨水も建物内の配管から落として地下のピットに接続するというゼネコンが嫌がる設計になっている。経年で躯体にひびが入ったり、配管が朽ちて漏水や汚れの原因になってしまうため、屋上の配管類を屋内に引き込むのはいわゆる「禁じ手」だ。そのリスクも見込んだ上で、それでも外観を重視し配管を建物内に引き込んでいる。まさに覚悟の意匠。本当によくやるわ。


 
三次元曲面の躯体


狭い前面道路が北にあるため、北側・道路斜線の影響を受け建物はセットバックしている。そのエントランスまでのアプローチには水盤が張られ、小さな橋が架けられている。現世とあの世、蓮と蓮華という宗教的モチーフを駆使し、幅員の狭い前面道路からの斜線制限という敷地からくる形状の制限というリアリティを忘れるような設えとなっている。こうしたところに高いデザインセンスが感じられる。


敷地の外から写真を撮っていると、入口に掲げられた「ご自由にお入りください」との文字に気がついた。これ幸いとノコノコ中に入ると、受付の女性がにこやかに挨拶をし、建物と納骨堂どちらの見学ですかと聞く。僕は建物の方だと答えると、今度は別の男性が出てきて、建物の案内をしてくれるという。思いがけない丁寧な対応にすっかり心奪われてしまった。
後になって知ったのだけど、1日2回、こうした見学会を催しているらしい。
この日の見学者は韓国人学生のカップルと僕の3人だった。


外壁に開けられた無数の孔


矩計図(新建築2014年9月号より)

躯体は「ホワイトコンクリート」という特殊なコンクリートで作られている。このホワイトコンクリート生コンプラントを借り切って練らなければならず、単価にして一般のコンクリートの10倍にもなるという。余分が出ないよう細心の注意を払って発注をしたそうだ。
また化粧型枠の杉板を手に入れるために、施工を請け負ったゼネコンが杉山をひとつ買い取り、建物の完成時には山に生えていた杉が無くなったという冗談か本当かわからないような話も聞いた。杉板の化粧型枠は再利用ができないため、通常の型枠の数倍の数量が必要になる。「山一つ分」というのは、あながち誇張ではないのかもしれない。
また基本的に躯体のやり直しが利かないため、打設は一発勝負なのだそうだ。よく見ると、空調の吹出口が孕んでいたりもするが、それ以外は極めて綺麗に施工されている。さすがはT中さん。
敷地含めた総事業費は約60億円、土地と建物でほぼ半分ずつという。


まず5階の如来堂に案内された。ここは阿弥陀如来が安置された部屋なのだが、寺院にしてはなかなか破格で、グランドピアノが置かれコンサートも催されるという。残響音が短くピアノの演奏や歌唱に最適なのだそうだ。
壁にはロンシャン礼拝堂を髣髴とさせる無数の孔が穿たれており、そのまま外観にも表れる。
特に、天井に届くひとつの窓から差し込む光は、春分の日秋分の日にちょうど如来像に当たるように設計されているのだが、天候の具合もあってまだ一度しかその現象が起きていないそうだ。その光り輝く姿を写真で見せていただいたが、神々しく輝く如来像は確かに迫力があった。


4階の本堂の内陣は壁一面に金箔が貼られ、右側の壁には莫高窟の壁画を高繊細なプリントで再現したレプリカがあった。この壁画のレプリカは中国から寄贈され、これを納めるために急遽設計変更し折上天井を設えたという。現場の慌しさが伺えるエピソードだ。

 
「空ノ間」は如来堂とうって変わって残響時間がとても長いため、バイオリンの演奏なんかに適しているらしい。角の正方形の欠けは排煙窓で、途中から設けられたそうだが、これってスカルパだよね?

 
バルコニーにはミニ水琴窟があり、水が周りから落ちると、階段室にカラカラと音色が聞こえるようになっている。


ロの字型の階段は光の入り方が美しいが、RC打放しの壁面を見るに断熱をしていないのか「夏は死ぬほど暑く、冬は死ぬほど寒い」らしい。階段室から極楽浄土に行けるなんて、なかなかお手軽じゃないか。


3階の法要室を見た後エレベーターで1階に戻り、見学は終了。たっぷり1時間半は見たと思う。専門的な内容や現場の逸話もユーモアたっぷりに語り聞かせてくださった解説員さん、ありがとうございました。

 
配置図、断面図(新建築2014年9月号より)

ところでなぜこんな不思議な寺ができたのか。
宗派は浄土真宗で、もともと都心に寺院を作ることが目的だったそうだ。その付帯機能として納骨堂があるが、中心に据えられた機械式納骨堂は日本最大のターミナル駅から歩いて行けるという立地特性から、関東を中心に全国から納骨の依頼が舞い込んでいるという。
僕も学生時代に墓の研究をしていたこともあり、墓地というものに人並以上の関心があるが、墓地は立地次第だとつくづく感じる。郊外の山を切り開いて作られた大規模霊園などは墓参りに行くにも一苦労で、代理墓参サービスなんてものもあるくらいだ。また檀家の減少、無縁墓の増加により、近い将来、遺族に負担を強いる旧態依然とした全国各地の墓地が荒廃し、墓制の存続も危ぶまれている。

いっそ墓など要らぬ、灰をその辺に撒いてくれ!とも思うけど、現在の墓制では墓地以外の埋葬を禁じているため、エアーズロック辺りまで行かないと叶わないのだ。窮屈だな、この国は。
そんな状況を鑑みると、維持管理がきちんとなされ、音楽イベントなんかで人が集まり普段からワイワイガヤガヤとしているところに狭いながらも納骨される方がまだイイな、と思ってしまう。


近代的な都市は死者と生者を隔絶し、死から目を背け、生への眼差しのみに依存してつくられている。東京都内にある小規模な墓地はその周囲に高い塀を設け、内部の様子を窺い知ることができないケースがほとんどだ。
かつて冠婚葬祭の中心に住宅があり、死を迎えるのも住宅だったが、今では約8割の日本人が病院でその生命を終えている。
こうした生と死が断絶した都市空間は、人口の自然減少という大都市が未だ経験したことの無いフェーズに差し掛かったときに、果たしていつまで有効なのだろうか。

 
Philippe de Champaigne "Vanitas" (1671)/ Giovanni Martinelli "Memento Mori (Death comes to the dinner table)" (1635)

死と向き合うことは決してネガティブなことではない。古代ローマでは「メメント・モリ」といったが、死を想うことで生を生きる哲学は古くから存在し、日本においては仏教がその役割を担っていた。
「寺はもともと寺子屋に代表されるような、地域に根ざした場所でした。そんな寄り集まれる場所をつくりたいというのが住職の願いでもありました」と解説の方は言った。
ゆえにこの寺は、もちろん死者を弔う場所でもあるが、人々の寄り集まる場所としても意図されている。そのためのコンサート可能なホールであり、見学者にもまた丁寧に対応する。

近代が排除した死を内包しつつ、生きる者と共存する空間をつくる。そんな未来の建築の姿を、たまたま訪れた新宿の街中の、異形の寺で感じた。

死者とともに生きる未来は、案外すぐ近くにあるかもしれない。

おわり

阿佐ヶ谷書庫に行ったこと

5月某日、堀部安嗣氏設計による「阿佐ヶ谷書庫」(2013)の内覧会に行ってきた。
今回は外観・内観ともに撮影不可という制約があったが、この建築の詳細は『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(松原隆一郎堀部安嗣,2014,新潮社)につぶさに記録されているので、そちらを参照されたい。

* * *



Living Design Center OZONE 記事より

交通量のある早稲田通りに面した立地に、ひっそりと佇むグレーの外観を見た時、外苑前にある「塔の家」(東孝光、1966)という名作住宅を思い出した。喧噪の中に立つ、いびつで禁欲的な箱という点で両者は似ていた。

ところが中に入った瞬間、禁欲的だという第一印象は消し飛び、「凄いところに来た」と思った。シリンダーの中にびっしりと並べられた本。そこに螺旋状の階段と通路が巻きついている。視線はまず正面の本棚、そしてヴォイドの上下に注がれ、いやがおうにも圧倒的物量の本と対峙しなければならない。
僕が体験したことのある螺旋状の空間ではNYの「グッゲンハイム美術館」があるが、スケールがまるで違って、書庫の直径は3.6m。ちょうど広めの螺旋階段くらいのスペースしかない。このスケールは敷地と棚割から何度もスタディし決められたそうだ。


新潮社HPより

地下1階、地上2階+ロフト階の3層の構成ながら、徐々に自分が何階のどこにいるのか、方向感覚を失ってしまう。ウンベルト・エーコが著した『薔薇の名前』に出てくる修道院の禁書図書館や、ホルヘ・L・ボルヘスの『バベルの図書館』、遠藤彰子氏の絵画作品などを思い出した。

開口部は脇に設けられた諸室にあるが、中央の書庫部分にはトップライト以外の採光がない。
このトップライトは乳白で、かつドーム状の頂部は白く塗り込められているため光が拡散し、照明を落とした内部は意外にも明るかった。


新潮社HPより


 
平面図、矩計図

ごく一般的な建築教育を受けた僕からしてみると、ここまで外界を拒絶していいのだろうかとはじめ戸惑ったが、やがてここはあくまで「書庫」であり、人がそこに寝泊まりしているという主体の逆転現象が起きていることに気づいた。
堀部氏はこのプログラムの特殊性に目をつけ、積極的に閉じる選択をした。厚く充填されたコンクリートに囲まれた空間は、玄関扉を閉じるととても静かになる。
またこの空間を孤高の存在へと高めるのに、2階部分に設けられた仏壇が一役買っている。書棚2つ分のスペースに巧みに納められた仏壇は、この書棚のスパンを決定する要因となったそうだ。線香の香りが狭い室内に充満し、一万冊の蔵書に染みこんでいく。

クライアントの松原隆一郎氏は東大で経済学を教える学者で、ここは籠って物書きするのに使うそうだ。
特に興味深かったエピソードとして、松原氏はその時執筆している原稿によって書棚の本の位置を更新していて、それでも探している本が見つからないことはないという。つまりこの書庫は松原氏の頭の中そのものであり、脳内を外在化したものという捉え方ができる。
「身体の外在化」というのは言葉で言うのは簡単だけど、スケール感と符合する例は少ない。その点、直径3.6mの円筒と身体の親和性は高く、僕らには想像しかできないが、松原氏にとってこの書庫が自身の身体そのものなのだろうと思った。


* * *


内覧会は無事終了したけど、僕の中で「阿佐ヶ谷書庫」の何かが引っかかっていた。あの空間を形容するにはまだ言葉が足りない。

しばらくモヤモヤしていたが、突破口を開いたのは同行したスギウラ氏が
即身仏になるための空間じゃないんだ」
とつぶやいたことだった。

この「即身仏になるための空間」というのは言い得て妙で、仏壇が象徴する宗教性に加え、書物の山の中心に武術と学問を極めた松原氏が座ることで完成する知の立体曼陀羅という宗教的解釈はおおいに成立する。
さらに大地震の際には棚に納められた一万冊の本が一斉に自分に向かってなだれ込んでしまうという運命を背負った劇的な空間でもあるのだ。死ぬわ。

アフリカのある部族は、家族が亡くなるとその家族が使っていたベッドの下に埋葬するという風習があるそうだ。「眠り」と「死」が空間的に結びつき、「家」が時間とともに「墓」になるという象徴的な話だ。

また冒頭に挙げたボルヘスの『バベルの図書館』では、息を引き取った司書は六角形の回廊で囲まれた穴の中に投げ落とされ、無限の落下の中で肉体が朽ち果てるという。

 
"The Library of Babel" illustrated by Erik Desmazieres

「阿佐ヶ谷書庫」はこうしたイメージと決して無縁ではない。
ひとたび巨大地震が起きれば1万冊の書物に埋もれ、運が悪ければ地下に設けられた書斎はそのまま墓と化してしまう。ちょうどアフリカの部族の「眠り」が「死」と結びつくように、線香の香り立つこの書庫では「知」と「死」はまさしく表裏一体の構造になっている。

僕が「阿佐ヶ谷書庫」で感じた形容できない感覚、あれは建物が発する濃厚な死の匂いだったのだ。

ほぼ同時期に堀部氏は「竹林寺納骨堂」(2013)という建築をつくりあげているが、そうした経緯とは無関係ではないだろう。
この特殊な条件下で、二重にも三重にも意味を重ね、密度の高い建築として成立させた堀部氏の手腕は、さすがというほか無かった。

見学会は新潮社が企画し、竣工から今のところ毎年実施されている。
この濃密な空間を体験したい方は次の機会に申し込んでみることをお勧めしたい。

ガンダム建築

機動戦士ガンダム」を知っているだろうか。
かれこれ30年以上続くアニメーションのシリーズで、内容は知らなくても名前くらいは聞いたことがあると思う。

僕は「ガンダム」が結構好きだ。もっと言えばシリーズ全体、外伝的な小作品、小説や漫画も含めたコンテンツに中学、高校とどっぷり浸かり、プラモデルも相当な数を作るくらいには好きだ。作中では「モビルスーツ」と呼ばれるロボットに人が搭乗して戦うのだが、ハイテクなのにある種の泥臭さも感じる作品世界は現実世界と地続きのようなリアリティがあり、他のロボット系のコンテンツと比べても頭ひとつ抜きんでている。
その「モビルスーツ」の代表格が「ガンダム」であるので、SF風のメカニックなものを「ガンダムみたい」と形容する人も少なからずいる。

表題の<ガンダム建築>といえば、高松伸若林広幸、阿部仁史、渡辺誠諸氏らの80〜90年代初頭の作品に対し、その傾向を総称して指す場合が多く、特に渡辺誠氏の「青山製図専門学校1号館」は最もガンダムみたいだと一部の好事家には有名である。頂部の宇宙船のようなギャラリーの造形的インパクトは相当なもので、一見すると忘れ難いものがある。ところで<ガンダム建築>とは一体何なのだろうか。

* * *

アドルフ・ロースは「装飾は罪悪だ」と断じ、ルイス・サリヴァンは「形態は機能に従う(Form Follows Function)」と宣言し、近代建築はゴシック、バロック新古典主義と連綿と続く建築における装飾的意匠を放棄した。
ル・コルビュジエは船や穀物のサイロ、工場といった無装飾で機能主義的な壁面を賛美し、フィリップ・ジョンソンはガラスで四周覆われた透明な記念碑的住宅を作り上げ、ヴァルター・グロピウスによって「国際様式(インターナショナル・スタイル)」と命名された鉄とガラス、コンクリートによる無国籍的な建築が世界を席巻し、都市の風景は一変した。こうして築かれた近代建築の代名詞たるモダニズムは、今日まで影響力を保ち続けている。

これに対し60年代以降に流行するポストモダンは、現代的な材料を駆使しつつ、近代建築の透明で平滑な壁面にギラついた装飾を復活し、近代建築が構築したデカルト的均質空間に対するアンチテーゼとして、視覚的に過激な建築を次々に生み出していった。SF映画に出てくるようなロケットや古代神殿のオーダー、神社の鳥居や西洋建築のキーストーンなど、古今東西のありとあらゆる建築や文化的象徴をシニカルかつフラットに並べ、瞬時に消費していった。ちょうどテレビが世界中の風景をひとつの画面に映し出すように、表層のみを剥ぎ取られたオブジェが文化的脈絡と断絶され、混乱した風景に拍車をかけた。この都市と資本のニーズに迎合しつつ皮肉る不毛ともいえるモードは、バブルの崩壊とともに終焉を迎える。

その後、国内の建築においてポストモダン建築もそれ以外の装飾的な建築も「バブル期に潤沢な資金を投じ、投資目的で狂ったように建てられた奇形のハコモノ」として一括りに批判の対象になり、その文化的意義の有無に関わらず屠られていった。この手の言説はそれまでムーブメントの中心にあった建築界内部からも発せられ、「ポストモダンの旗手」と仰がれた隈研吾氏も、90年代中盤には掌を返したようにこの狂騒から脱出している。

以上が日本のポストモダン建築におけるおおまかな筋書きである。

こうした経緯からポストモダンを「様式」と形容するのはちょっと憚られるが、慣習に倣えば<ガンダム建築>は上述のポストモダン建築に含まれる。

ポストモダン建築の中でも、特にSFのような機械的なモチーフをちりばめたものを、誰かがガンダムみたいだ」「ガンダム建築だ」と言い始めた。視覚的類似性に加え、いずれもヒロイック(英雄的)なカッコよさを追求しつつ、より偏執狂的、オタク的ともいえる複雑な表情をつくりだしている。


 

「青山製図専門学校1号館」はちょうどバブルの真っ只中、1990年に竣工した。今にもうごめきそうな油圧シリンダー、鮮やかな赤とシルバーの外装、睥睨するコックピットのような開口部、卵形の貯水タンク、突き出した避雷針を兼ねたマストなどなど、見ているだけでお腹いっぱいになりそうな機械的モチーフに満ちている。
この生粋のモダニストからは眉をひそめられそうな外観をもつビルは、建物として、というより一個のキャラクターとして街に棲みついている。<ガンダム建築>ではないが、浅草にあるフィリップ・スタルクの「ウ○コビル」などと同じく、変なアイコンとして意識に染み付いてしまっている人はそれなりにいるはずだ。

僕はというと、いわゆる正統的な建築の文脈からは外れているが、だからといって隅には置けない「冗談みたいな」面白さを抱えていると思っている。この「冗談みたいな」というのはデザインにおいてなかなかに重要で、例えば広告などは人目を惹くキャッチコピーにジョークを交えることはしばしばあって、中には、打合せ中に冗談を飛ばしてたのがそのまま通ってしまったんだろうなぁと思うようなものも見受けられる。もちろん数ヶ月で消える広告デザインと数十年残ってしまう建築デザインをそもそも同列に扱うのは難しいが、それでも「冗談みたいな」建築は僕らの心に爪を立て、既成概念に揺さぶりをかける。

冗談といってもレベルはさまざまで、ダジャレがコンセプトという根本的なものや、外観の印象からアニメに出てくるガンダムのイメージがそのまま立ち現れたシュールさというのもあれば、外観を構成するパーツにほとんど共通部材がなく、全て3次元データで管理され施工したという実務者からしたら失神しそうな冗談みたいなエピソードなどもある。そんなメタ視点から眺めれば、冗談みたいな<ガンダム建築>の裏に冗談にならないプロの仕事が垣間見え、そのギャップがまたシュールだったりする。
まっすぐに柱と壁を立て、平らな屋根を作ればもちろんそんな困難は少ないが、生みの苦労が少ない建築が人の印象に残ることもまた限りなく少ない。ここで敢えて難題を設定し「冗談みたいな」建築がたち現れる。映画でしか既視感のない金属の塊が眼前に現れることへの驚き、好奇心、そして技術や理想、ひいては人の行為、有機的なダイナミズムに対する感動。これこそが<ガンダム建築>にわれわれの目が奪われてしまう理由ではないだろうか。

* * *

バブル期の<ガンダム建築>は建築内部までヒロイックな原理が働く例はほとんど存在せず、表層に機械的記号を張りつける程度で、建物そのものの外観が貨幣と交換されるべき象徴としてつくられ消費されていた。一部に次世代の兆しが見えたものの、経済状況の変化により未発達なまま放棄せざるを得ず、デッド・テクノロジーとして歴史の暗闇に葬ったのはつい最近のことだ。

海外に目を向けると、年始にNYで見たモーフォシスの「41クーパー・スクエア」(2009)などはテクノロジーを駆使し極めて合理的に作られた<ガンダム建築>だといえるし、コープ・ヒンメルブラウの「リヨン自然史博物館」(2014)なんてのは今にも動き出しそうなダイナミックさがある。アルゴリズムによる自律的デザイン、BIMを初めとした3次元でのデータ管理が徐々に浸透し、3Dテクノロジーによって複雑な形状をもつ建築が海外では次々に実現しつつある現代という時代に、僕なんかものすごくワクワクする。


"41 Cooper Square" Morphosis (2009) via e-Architect


"Musée des Confluences" Coop Himmelblau (2014) via ArchDaily


日本で20年ほど前に死に絶えた<ガンダム建築>が再び出現するかに見えたのはザハ・ハディッドのオリンピックスタジアム案だった(あれはキュべレイみたいだった)。
しかし運営の杜撰さやコスト見積の甘さ、各課調整の不手際を運営側が直視せず、「奇抜なデザインのせいでコストが高い」とか「巨大でおぞましく圧迫感がある」とか有象無象の世論の批判をマスメディアが扇動することで論点がすり替わり、結局うやむやなまま計画を頓挫させてしまった。皮肉なことに、<ガンダム建築>をつくることの困難さを痛感する象徴的な出来事になってしまった。


"Tokyo's New National Stadium" Zaha Hadid (2012) via Zaha Hadid Architects


こうして日本における<ガンダム建築>は再び立ち消えてしてしまったが、いつの日か“Gの鼓動”を感じる<ガンダム建築>が台地に立ち、お台場のガンダムに負けず劣らず人々に驚きを与え、好奇心をくすぐり、末永く愛される、そんな建築が生まれることを夢想しながら、今日も僕は平凡な建築を作っている。


「41クーパー・スクエア」に行ったときの話はこちら。
→ 【ニューヨークの建築、アートめぐり(5日目)

(おわり)

台東区近代寺院散策 〜 妙経寺・善照寺・松源寺

週末に散歩がてら台東区にある寺を3つほど回ってきた。寺といっても戦後に建築家の手によって建てられた近代建築で、全てRC造のものだ。
これらは新御徒町駅から徒歩圏内で、穏やかな気候の中、ぶらぶら散歩するにはちょうど良かった。

妙経寺 / 川島甲士 (1959)


最も駅から近いのは挑発的な鐘楼が目を引く妙経寺だ。設計者は川島甲士。清水建設設計部から逓信省営繕部を経て独立、芝浦工大助教授を務める傍ら、「津山文化センター」(岡山県津山市, 1965)で一躍名を馳せたモダニズムの建築家だ。「津山」の6年前に竣工したこの日蓮宗の寺院は折板屋根の本堂と納骨堂、鐘楼、住職の住戸が広場を取り囲むように配置され、その奥は墓地と続く。
本堂は①耐火建築であり ②従来の権威がかった様式ではなく、地域の冠婚葬祭のセンターとして開かれた空間であること、という要請に対応するものとして、RCの折板屋根が架けられた。この折板構造は大空間を飛ばせることから50〜60年代にホールを持つ建築に好んで用いられた。川島氏は字義通り「がらんどう(伽藍堂)」をつくったのである。

 
有効ブロックの裏にはガラス。欄干の造形も凝っている。


鐘楼の方は本堂と打って変わって自由奔放だ。目を引く紅の屋根に、突き出す水抜き孔。屋根は2本のダルマ断面をもつ柱で支えられ、その柱を橦木がブチ抜いている。これぞまさにアヴァンギャルド!反骨精神!
この屋根の形状については「外に向かい跳ね上がる外向的上昇指向を表す」とも「インドの水牛をモチーフにした」とも言われているが、サングラスをかけて剃りこみを入れたチョイ悪坊主がロックを流しながら縦ノリで撞いていてもおかしくないくらい、強烈な芳香を放っている。
厳かな所作で式典を執り行う儀礼空間としての本堂と、身を捩り無常の音を鳴り響かせる鐘楼という機能のダイナミックな対比は、「静」と「動」それぞれの身体の挙動に、モダニズムの言語を巧みに対応させている。この対比は空間に緊張状態をもたらす一方で、豊かに茂った植栽が間を取り持ち、印象を柔らかにしている。コンパクトながら存在感のある建築だった。


善照寺 / 白井晟一 (1958)


通りから入る細い路地の両側は笹が植えられ、その奥に真っ白なシンメトリックな妻壁が覗く。善照寺本堂は、丹下健三と並び称される巨匠、白井晟一の作品の中でも、特に凛とした佇まいをみせている。
この白亜の聖堂ならぬ白亜の寺院は、地面から切り離されて浮き上がり、外周には片持ちの廊下を回している。その浮世離れしたプロポーションをしげしげと眺めていると、この本堂自体が浄土そのものの表象なのではないかという気がしてくる。
白井晟一はドイツの実存主義ヤスパースの下で哲学を修めた異色の建築家だ。ものの「存在」を問う実存主義を身につけている彼は、もしかしたら「存在しないもの(浄土)」に照準を定め、建物を地上から切り離し非現実を徹底的に作りこむことで、非現実の浄土世界(抽象世界)から逆説的に現実の「生」(具象世界)を照射しようと企図したのではないか。


この仮定に従えば、物質感・遠近感を喪失した白い壁、極度に薄く跳ね出された廊下の浮遊感、構成と明度差によって御影石が浮遊して見える正面石段の造形にも全て合点がいく。
本願寺の別院である善照寺の宗派である浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば仏となり極楽浄土へ行くと説く。白井氏はこの浄土世界を西欧的な抽象世界(形而上空間)と読み替え、虚空に浮遊する非現実世界を近代的マテリアルの代表であるコンクリートを用いて再現を試みた。
更に言うと、浮遊する石段は「あの世」と「この世」を掛け渡す橋と見立てることができる。その証拠に、建物の四周には玉砂利が敷き詰めてある。玉砂利は枯山水でも用いられるが、作庭において「川」や「大洋」を表す。ここでは「三途の川」である。
この推論の妥当性は読者諸兄の意見を請いたい。


廊下を反対側から見る。


台形のキャンチスラブ。パースが利いて見える。


中には入れなかったが、ガラス越しに空間がわかる。

つまるところ、この建築は浄土世界の表象であり、アートであり、哲学そのものなのだ。白井晟一に大抵の建築家が追いつけないのは、建築が哲学そのものだからだ、と理解した。


松源寺 / 川島甲士 (1969)

 
曹洞宗のこの寺院は寛永6年(1629)にこの地に移されてから400年近くの歴史を持つ古刹だが、本堂は妙経寺と同じく川島甲士によりRC造で設計された耐火建築である。この寺院を特徴づける屋根は緩やかにカーブし、先端でくるんと曲げられて雨樋の代わりとなっている。軒の意匠を合理的にデザインしているようだが、先端はやはり雨垂れの跡が目立ってしまう。
またここは川島氏の葬儀を執り行った寺という。学生時代に建築家の墓について研究していたので、もしかしたら川島氏の墓も変わったものがあるのではないかという密かな期待もあったが、日も暮れてきたのと、その墓地は同型の石塔が整然と並べられている狭小墓地特有のものだったため、余計な詮索はせず帰路に着いた。

この日見た三つの寺院は、伝統を守りつつ革新する「守破離」が顕著にみられた。特に都心に新築する寺社建築は耐火建築物でなければ建築基準法上ダメなパターンが多く、コンクリートを用いていかに伝統を重んじる宗教建築をつくるかというのは関東大震災以降の日本の建築家たちに突きつけられた大きなテーマであった。単に使い古された形状をそのままコンクリートに当てはめたものではなく、コンクリートという材料を用いた新たな空間の試みが、この日見た三寺で確認できた。
近・現代の寺社建築は伊東忠太の「築地本願寺」以外ノーマークだったけど、ちょっと面白いかもしれない。


おわり