コストのことを考えさせる理由

僕も生意気に後輩の作品のエスキスチェックなんかする機会があるんだけど、最近はしばしばコストのことを口にするようになった。

「それ、いくらかかるの?」とか

「このデザインなら○○だと単価が高いから××にしたら」とか。

あるいはこんな質問もする。

「これのクライアントや事業主体は誰(どこ)?」

実に意地悪な先輩である。
だがこう言うと決まって、学生の課題なんだからコストのことは気にしなくていいんだ、という反論がある。
デザインの教育現場、特に、大学の実習課題レベルでは、まずコストのことはあまり気にせずデザインを考えさせる。その方が個人の感性を伸ばし、自由な発想でデザインをつくることができると考えられているからだ。


しかし、僕はこの反論が決していつも正しいものとは思わない。


理由は2つある。

ひとつは、現実的な問題として。
デザイナーは多くの場合、クライアントがつき、彼らの望むもの、あるいはそれ以上のものを提供するという使命がある。
(もちろんコストという制約の中での話である。)
時にはコストパフォーマンスとデザインを天秤にかけ、クライアントに決断を求めることもあるだろう。
その二つの曲線の接点が、デザインの着地点となる。
つまり、デザインとコストは異なるベクトルをもつが、現実世界では常に同一の次元で考えざるを得ないのだ。
これはあらゆるデザインに不可欠なバランス感覚であり、このバランス感覚を学生時代から養っておくことは、決して無益なことだとは思わない。

プロダクトデザインをやってる学生なんかはターゲットユーザーをはじめコストも結構シビアに考えているが、概して建築系ではこういった問題に無頓着な学生が多い気がする。モノの値段のレベルがかけ離れ過ぎて、いまひとつ実感がわかないのだと思う。

それ以上に大切なもうひとつの理由は、考える力の問題である。
デザイナーは誰も座れない椅子をつくるわけでも、真っ白な空間に家を建てるわけでも、低すぎて乗りこめない車をつくるわけでもない。
必ず介在する身体、使用環境の存在なしに語れないし、それを逸脱したものはアートの領域に任せるしかないが、身体をはじめ制約はデザインの原動力である。
建築家の隈研吾氏は「制約」が創造性を生むと、著書『負ける建築』岩波書店/2004)で断言しているが、僕のコストに関する考えもそれに近い。

念のため付言すると、何もカタログで価格を確認しなさいとか、ましてや『建設物価』見なさい、とか言いたいのではない。

なぜその壁が必要なのか、なぜこれだけ大げさに材料を用いるのか、なぜこれだけ地面を削って地下室をつくるのか・・・
コストを削るための作業は、提案に「なぜ?」と疑問符を投げかける。

それは決してネガティブな作業ではなく、根本的な問題に立ちかえるための作法だと思う。

コスト、そしてその必然性について考えさせたら、ほぼ間違いなく「壁や天井をガラス張り」といった一年生にありがちな提案は消えるだろう。
「この提案は高くついてしまいますが、○○のような考え方は今まで存在せず、これがつくられることによってデザイン界(あるいは社会的)に○○の影響を与えることができます」なんてロジカルに語れるような後輩がいたら、もう採算度外視でガンガンやるといいよ、とアドバイスしてしまう。

矛盾しているようだけど、その程度でいい。

ひいては社会の中での自分の在り方まで敷衍して考えられるようになれば、デザイナーとしてまずひとつ、成長したといえるのではないか。


生意気な先輩のボヤキとして、そして自分自身への"Epigram(警句)"として。