儀式的なもの〜日本人における「型」の意味

先日、友人と会話していた時に「男の職場」と「女の職場」の違いが話題になった。
例えば、連休なんかで久しぶりに職場に戻った時の「お土産」に対する意識が全然違うという。
僕の属している建設業は「男の職場」だからか、お土産なんてもらえたってもらえなくたってどっちでも良いという雰囲気がある。
ところが「女の職場」ではそうではない。
一人でもお土産を配り損ねたら、「なんで人数分買って来ないの?」と始まるのだ。
別にお土産の中身が欲しかったかどうかではなく、留守の間の感謝の気持ちを表せるかどうかが重要なのだ、という。
同様の理由で、異動や転職する同僚への贈答品、メッセージなんかも抜かりない。
これが「女の職場」でのコミュニケーションを円滑にするいわば儀式なのだ。
このちょっと奇妙な「儀式的なもの」について少し考えてみる。

日本人の「お辞儀」についてロラン=バルトのテクストを引こう。

「煩雑な基準(コード)をもち、動作の端正な書体(グラフィスム)をもつもう一つの礼儀、日本人の礼儀、は私たちの目に敬意が誇張されすぎているとみえることがあるにしろ、それは、わたしたちが西洋人流儀に人間の形而上学にしたがって読みとるからなのであって、じつはこの礼儀は空虚の行使なのである」
ロラン・バルト著 『表徴の帝国』 筑摩書房(1996) pp.102-104

深々と頭を垂れる二人の和装の女性、その間には宙に浮いたような「贈り物」。
バルトはこの慇懃なジェスチャーの本質は空虚、つまり空っぽだと鋭く見抜いた。
ボードリヤールなら、「象徴の交換が行われている」と評すだろう。
ここでの「贈り物」は副次的なものに過ぎず、あくまで交換されるのは相手に対する思いやりや敬意といった「意思の象徴」だ。
受け手はそれを理解し、物と同時にその意思も受け入れ、同様の象徴(お辞儀)で謝意を表明する、つまり交換する。
バレンタインの本命チョコみたいなものだ。

ところでバレンタインデーとは、聖バレンタインが殉教した日である。
と、言ったところで誰もそんな由来に見向きもしないし、聖バレンタインの逸話を知らない人も結構いるかもしれない。
でも由来はなんであれ好きな人に告白する日だとみんな知っているし、学校なんかでは男女とも色めき立つ。
日本人にとっては雛祭りや節分と同じように、毎年恒例のお祭りとして認識されている。

更に話は跳ぶが、最近TEDトークで日本人の僧侶が「日本人の宗教観」をテーマに講演を行い、ネットで大きな話題を呼んだ。
松山大耕「宗教の理由」
その僧侶はキリスト教系の学校で育ち、家業である仏教の僧侶を継ぐという変わった経歴を持っている。
宗教的対立がほとんど存在せず、互いが尊重し認め合える日本のモデルを世界に伝えたいというのが講演の趣旨だったが、僕は日本のモデルを他所で適用するのは不可能に近いと思っている。
その理由にたどり着くには、この特殊な島国の儀式的慣習からくる風俗を分析しなくてはならない。

古くから日本には仏教と神道という2つの主要な宗教(厳密には神道は宗教ではないのだが)があった。
もともとアニミズム的に発達した神道は、確固たる崇拝対象が存在しないため、他者を排除するのではなく受容する文化である。
これに中国から輸入された仏教は日本式に姿を変え、時に神仏習合という形で寄り添いながら発展を遂げた。
キリスト教文化が戦国時代に流入したときにも、その奉仕精神が日本に受け入れられすぐに馴染んだ。
江戸幕府の禁教令で一時衰退したものの、明治以降、学問、医療、福祉等様々な分野で地域に密着した活動を展開し、今日の発展に至っている。
しかし、とりわけ日本の文化にかくもこのような形で宗教が組み込まれた背景には、敬虔な教徒による真摯な活動を別として、大多数の特に信教を持たない人々による「祭り」化の側面がある。
つまり宗教行事を祭りと同一視し、もてはやしたのである。
「祭祀」という言葉が端的に象徴するように、祭りと信仰は紙一重のものである。
そして「祭り」は奥ゆかしく感情を押し殺すことを美とする日本人の、鬱屈した精神の解放される場であった。
ハレとケの明暗がはっきりと分かれる日本人にとって、ハレの「祭り」には理由などそれほど重要ではなかった。
そこにそれぞれの宗教行事がうまく合致し、元旦になれば神社へお参りし、結婚式には教会で十字架を前にして神に誓いの言葉を捧げ、隣人が死ねばお経を唱えるといった、外国人から見れば奇妙で脈絡のない光景が誕生してしまうのだ。
さらに戦後に先述したバレンタインやハロウィンなんかも商業的理由から輸入され、菓子業界やパーティグッズ業界を賑わせたり、節分に吉方を向いて無言で巻き寿司を食べるといった関西のごく一部に存在していた奇習も、セブンイレブンの販売戦略によって市民権を獲得してしまった。
このように概観すると、そこに信仰としての宗教は存在せず、「型」通りの行為を済ますことで、他者(つまり社会)に順応し、社会から承認を得るという「儀式的」側面が浮かび上がってくる。
ここ日本における宗教が「型」である以上、他国での応用がきかないのは言うに及ばない。

さて、この「型」というものは日本の伝統的な文化のほぼ全てに当てはめることができてしまうという普遍性を持つ。
例えば茶道。お茶を淹れて客人をもてなすために極められた「型」である。
それは茶器、茶道具、掛け軸、茶室、そこで起こる一挙一動に意味があり、各流派による厳密な「型」が存在する極めて高度な芸術だ。
他にも華道、書道、柔道、剣道、香道などなど、日本文化は「○○道」すなわち「型」があり、その「型」の範疇を守り継承し、時に破壊しながら作り上げてきた。
(「型」を壊すことはつまり「型破り」となり、伝統を重んじる人々にはリジェクトされてしまう非常に危険な行為だ。)
「道」の字はついていないが、歌舞伎や相撲なんかも「型」=決まり手が存在し、そのルールの中で起こる芸術を、僕らは楽しむことができる。
死に方にすら「切腹」という「型」があり、正式な手順があるくらいだ。
なぜ僕らはこんなややこしい文化を築き上げてしまったのだろうか。

ここからは勝手な想像だけど、僕はここに日本人のメンタリティ、すなわち、島国的性格を見出す。
大陸民族は常に移動し、領土を獲得のために戦争をした。モンゴル帝国ローマ帝国、中国の歴史を紐解けば、領土の争いから逃れられない。
反対に島に住む日本人は、危険を冒してまで他国と戦争をする必要に迫られなかったが、拡大も縮小もしない逃げ場もない小さなコミュニティの中で、他人との「和」を保つことで生き延びる術を獲得した。
これが「型」なのだと思う。
相手に失礼がないように最大限の敬意を払う、秩序に忠実に従う、またそのそぶりを見せる。
これが食うや食わずやの小さな島で培われた交渉術である。
その洗練された「型」に僕らは共感し、魅了されるのだ。

歌舞伎俳優がお約束の「見得」を切った時に、僕らは精一杯拍手する。
正確な所作で点てられたお茶を、僕らは緊張と畏敬の念をもって「型」通りにいただく。
連歌では先の句を詠んだ相手への敬意を、文学的センスと「型」で表す。
「型」に対する「型」通りの反応をすることで、互いに尊敬の念を伝えると同時に、「わかるものだけがわかる」快楽を得るのだ。

他者が「型」を演じ、その「型」に自己を没入させていくという複雑な手続きから生まれる奥深い文化。
その精神の微妙な揺らぎと緊張の糸を渡りきった先に訪れる、互いへの尊敬の念。
それが日本人の根底にあるのではないか。

話を冒頭に戻すと、大陸的な割り切りがある「男の職場」に比べ、「女の職場」はとても日本人的だ。
この小さな島国で生き延びていくには、ぜひお土産はチームの全員分は買っておきたい。