デザインの敗北、デザインの勝利〜セブンカフェコーヒーマシーンのデザインを巡って


今日バズってたあるFBユーザーのコメントが、あまりに酷い内容であったのでここに転記しておく。

日本語がカッコいいと世界の人が気づいた時にまだ、英語がかっこいいと信じてる間抜けなデザイナーが日本には5万といる。
私は、日本で使われている文字の形が最高に好きだ。
特に、源氏物語の写本は最高に美しいものばかりだ。
ひらがなの美しさは世界一である。
線でモノの形を表現する漫画の世界に通じる。
源氏物語を写本していると裸を線の強弱で表現する漫画の絵を描いている時と同じ感覚を受ける。
「ひ」というひらがなは豊満な胸を描いているように感じる。
その他、すべてのひらがなが魅力に溢れているのだ。
漢字もまた、様々な書体があり、興味深いのである。
この美しいものに目をむけず、戦争に負けた劣等感か、英語が好きなデザイナーが多く日本には存在し、何でも英語にすればかっこいいと勘違いしている。
まあ、デザイナーと自称している時点で、英語かぶれの馬鹿者なので仕方ないが。
ということを前提にしてこの人。駄目な日本人がここに紹介されている。
英語でかっこ良くデザインしたと勘違いして店に配置した装置。
使い勝手が悪くて、お店の人の工夫で、日本語のシールが貼られまくる。
各店舗の個性が面白いという記事。
最初から、世界最高峰の日本語でデザインすればよかったのだ。
昭和生まれはどうも、英語の呪いから抜けられないのかもしれない。という話。
日本の文字の美しさもわからない美意識音痴は他の文字の美しさも理解できないと思う。
http://matome.naver.jp/odai/2137351572553391601


この「デザイナーと自称している時点で、英語かぶれの馬鹿者なので仕方ないが」という発言は日本全国のデザイナーを敵に回すが、それがましてや佐藤可士和氏に向けられているとなると、これは只事ではない。
よくここまで浅はかな知見で他人を罵倒できるのかと思うし、それをもてはやす向きも嫌気がさす。
佐藤氏を擁護する訳ではないが、この発言には同意する部分はあるものの全っくの的外れであるので、このデザインを巡る発言に対して反論を試みようと思う。


・セブンカフェのマシーンのデザインは敗北なのか
まとめの内容は、英語でスタイリッシュに書かれたボタンが分かりづらく、誤操作を避けるために各店舗でテプラを貼るなどして対応している実態を嘲笑している。
この事実だけ見れば、立派な敗北である。
プロダクトデザインにおけるUI(ユーザーインターフェース:ボタンや液晶パネルなど操作に関わるもの)の第一目的は、目的とする動作をいかに引き出すかということに尽きる。
誤りなく直感的に使い方が分かるものが市場では求められる。
この点に絞ってみれば、赤と青のLEDは、赤=熱い、青=冷たい、という直感が働くが、L、Rのボタンに初めて出くわしたら我々日本人は逡巡するだろう。

ここで視点を移してみる。どのような過程でその製品が生まれたか、である。
プロダクトデザインは例外なくコンセプトとターゲットユーザーが絞られるが、セブンから求められたターゲットはいったい誰なのだろうか?
まず、コンビニの恩恵を最も享受するのは都市で働くサラリーマンである。
疑いようがなく彼らはターゲットだろう。
また日本に滞在する外国人にも眼は向けられているはずだ。
日本の店で出されるコーヒーは海外に比べると3〜4倍も高いこともあり、まず気軽に常用できるものではない。
そこにきて低価格で美味しいセブンカフェは、都市で働くサラリーマンや外国人に向けた商品だったのだと推測できる。
よって英語のみの表記は「この機械を使ってコーヒーを飲むのは、英語だけの表記でも問題ない人」というターゲット選定からきているとみて間違いない。
でなければ日本語併記するだろう。
佐藤氏はプロ中のプロであり、売主はコンビニ業界日本一のセブンである。
英語のみの表記は、判読性のリスクよりデザイン性に重点を置いても問題ないと踏んだのだろう。

だが、現実は違った。

英語はおろか、アルファベットを読むのもままならない層までもがカップを購入し、機械の前でことごとく狼狽する。
その対応に追われる店員は、テプラを貼ることにより、「ユニバーサルデザイン化(誰でも使える化)」したのである。
つまり、英語のみの表記にしたこの「わかりにくい」デザインは、決してデザイナーの一存にあるのではなく、
クライアントたるセブンの販売戦略の誤算にあったのである。

デザイナーは常に新しいものを求められる。
一方で、新しすぎてユーザーを置いてきぼりにしたデザインも、優れたデザインとはいえない。
一流のデザイナーは、常に実在-非実在の境界面に自分の意思を投げ込む。
その成果は、凡庸さ〜斬新さ〜大失敗の狭間で揺れ動く。
投げた変化球が常にキャッチャーミットに収まるかといえばそんなことはなく、時にボール、時にデッドボールになってしまう。
それこそがデザインの難しさであり、妙味である。
決して「英語だから格好いい」などという子供じみた理由でデザインをしている訳ではないのだ。


・日本語のデザイン
この発言者の言うとおり日本語は確かに美しいが、言葉には意義を超えた「ニュアンス・雰囲気」がつきまとう。
コーヒーを飲むという習慣はかなり一般的になってきたものの、日本ではまだ緑茶に遠く及ばない。
コーヒーはまだアメリカやヨーロッパのものだ。
緑茶のパッケージがことごとく漢字であるように、このコーヒーメーカーのデザインが英語だからと言って英語かぶれだなどと因縁をつけて批判することは、そもそも文化的文脈を考えると的外れなのである。


・でもわかりづらいよ?
確かにね〜。
現実世界でサインに対して言葉によるその説明がされているのだから、結局デザインの敗北であり、本末転倒である。
ぱっと見てその使い方がわかる、意味がわかるものでなければ、大衆に向けて作られたデザインにおいては失敗でしかない。
(これとは別に、隠喩:意味を隠す デザインも存在する。特定の愛好者がその意味を多様に理解し、もしくは使いこんでいくことで理解することを意図した玄人向けのデザインである。例:倉俣史朗作『ミス・ブランチ』)


ここで僕が海外の空港で見たトイレの「流すボタン」デザインを挙げてみよう。

実に明快に「大」「小」が表現されている。何通りもの言葉が飛び交う国際線ターミナルのトイレにおいて、各国の文字を羅列するよりこの「直感でわかる」デザインが採用されたのは、なるほど合理的である。これはデザインの勝利だと言わざるを得ない。
例えばだけど、コーヒーマシーンのボタンに大小の違いがついてたら、間違う人は少なかったかもしれない。
そしてボタンの色(もしくは光)が赤と青なら、もっと分かりやすかっただろう。
しかしこんな提案も、佐藤氏が、そしてクライアントのセブンが間違い、失敗したからこそわかる教訓である。


デザインの答えは一通りじゃない。


終わりもない。


だからこそいろんな解があって、面白い。