ニューヨークの建築、アートめぐり(5日目)

ニューヨークの朝は寒い。特にこの日は最低気温が-10℃とかなり冷え込み、外に出ると風が吹き付け、思わず手をポケットに引っ込めた。ニューヨークはこの日から始業する企業も多く、朝の人通りも多かった。僕らはPark Avenueを通ってGrand Central駅まで歩き、そこから6番線に乗りBrooklyn Bridge - City Hall駅まで向かった。第一の目的地は探すまでもなく、駅から出た僕らの眼前にそびえ立っていた。


New York by Gehry / Frank O Gehry (2010)
 
建築家フランク・O・ゲーリーがマンハッタンで挑んだ初の超高層ビルは、ドレープのような優雅な外皮を持つダウンタウンの高級コンドミニアムである。その名もズバリ「ニューヨーク・バイ・ゲーリー」。そのフォルムは、一見既存の建物の概念を打ち壊す、彫刻的で個人的私情による奔放なものに見えるが、実のところ極めてシステマティックな設計手法によってデザインされている。形態・工法においてBIMを活用し、例えば外装のステンレスパネルは割付を数万通りのヴァーチャルスタディを行い、基本的なパネルと数枚の変形パネルのみによって構成している。複雑で優美な意匠を、テクノロジーを駆使して限られた予算の中で生み出すという、まさに21世紀のデザイナーの仕事だ。東京ミッドタウン内にある21_21 Design Sightでやっていた「フランク・O・ゲーリー展」で予習していなければ、この仕事の凄さが理解できなかったに違いない。

 
基壇部は周囲のレンガ造のビルに色彩と形態を合わせており、アイレベルでは街並みに馴染んでいる。

 
ステンレスパネルの拡大。これで各階施工図を起こすとか信じられない。900戸全プラン違いそうだ。凄まじい。頭がおかしい。(褒めてる)


背面は完全に割り切り、ストレートな裁ち落しとしている。全体がぐにゃぐにゃしている訳ではなかった。

 
公開空地の看板と公開空地。マンハッタンにも総合設計制度みたいなものがあるのか。

などと興奮して四方から写真を撮る僕とは対照的に、妻はただただ寒そうだったため、もっと眺めていたい気持ちを抑えつつ僕らはその場を後にした。


WTC / Skidmore, Owings & Merrill 他 (建設中)

copyright of Aman Zafar

2001年9月11日のその日、中学生だった僕はテレビで映された光景に戦慄したのを覚えている。2棟の細長いビルが煙を出していた。あれは確か英語の教材の表紙に描かれてあったやつだ、とわかった。その直後に起こったことは誰もが知る歴史的事件となった。あれから15年、僕はその黒々とした深淵を覗いている。ぽっかりと穿たれた虚ろな二つの穴には、多くの流された涙のごとき滝が流れ落ち、その周囲を延々と取り囲む黒い石碑には多くの名前が刻まれていた。ニューヨークでは2,763名が命を落とした。
かつて日系人建築家ミノル・ヤマサキが手がけたツインタワーがあった場所は「グラウンド・ゼロ(爆心地)」と呼ばれ、跡地にはメモリアル施設と7つの塔が計画された。国際コンペでマスタープランを勝ち取ったのは米国の建築家ダニエル・リベスキンドで、「フリーダムタワー」と称する自由の女神像を象ったビルを中心に据えた計画だった。このコンペ後に様々な方向からの圧力と思惑が働き、主に収益性に劣るという理由でフリーダムタワーの計画は米国最大の組織設計事務所であるSOMが引継ぎ、リベスキンドは降板させられてしまう(この辺りの経緯はWikipediaの「1ワールドトレードセンター」に詳しく書かれている)。


一方、ツインタワーのフットプリントではランドスケープコンペが実施され、KPFから独立した若き建築家マイケル・アラッド(Michael Arad)の提案が5,201案中1等に選ばれ実現した。彼が"Reflecting Absence(不在の反映)"と呼んだ2つのヴォイドは黒の大理石で覆われ、滝が流れ落ちている。あぁここは、とてつもなく大きな墓なんだ、と思った。日本でも欧米でも墓石にしばしば黒色の石を使うが、それが引き伸ばされ反転している。マンハッタンは超高層ビルが象徴する文明の極致であるが、ここでは超高層が消え、代わりに地面が抉られている。つまりここは文明の象徴のネガであり、一度死に絶えた都市そのものの墓標なのだ。一度死んだ都市を囲むように新たな都市を築くこと、破壊と再生、不死鳥のごとき崇高な都市と理念の勝利、それがグラウンド・ゼロで描かれた都市計画のストーリーだろう。巨大な空洞を眺めながらそんな空想に浸っていると、隣で犠牲者の家族と思われる人たちが石に刻まれた名前に花を差していった。


僕はたちまち言葉を失った。都市の墓標であると同時に、犠牲者の家族にとってここは愛する家族の墓でもあるのだ。こんな単純な事実をなぜ忘れていたんだろう。



コンペ案(左、skyscrapercity.comより)と実現した1WTC(右)


現行の計画案CG(CNNより)


安藤氏の提案(greg.org 他)

自由の女神からスーパーマンへの《変身》
フリーダムタワーに代わってSOMが手がけた1WTCはアメリカンマッチョイズムの象徴、つまりスーパーマンである。テロには報復を、破壊にはより強力な再生を、そんな機運が21世紀初頭のアメリカでは渦巻いていた。安藤忠雄氏はWTC跡地に高層ビルを建てない地下のメモリアル施設を提案していたが相手にされなかった。アメリカにとっては辛気臭く感傷的な安藤氏の提案よりも、「テロリズムに屈しない」国家再生の象徴たるスーパーマンが欲しかったという健全な建前に加え、テロによる建物・インフラ・サービスの復旧及び開発による投資の増強、そしてアフガン報復戦争をはじめ国際的に金が流動するための資金調達という経済的理由より、延床面積を増やし収益性の高いビルを建設しなければ「元をとれない」という本音がある。もとより世界的にも極めて地価が高いマンハッタンの南端にあって、その空を使わないのは投資家にとってみれば「金をドブに捨てるようなもの」なのだ。マンハッタンの都市景観が経済原理によってつくられていく過程はレム・コールハース著の『錯乱のニューヨーク』に克明に記されているが、リベスキンドのしなやかな「自由の女神」がSOMの「スーパーマン」に《変身》した一連の経緯はアメリカの筋肉質な国家思想そのものが投影されているように思える。だからマッチョなのだ、この国は。

 
1WTCの隣には既に竣工した7WTCがある。こちらはSOMのデイヴィッド・チャイルズの設計によるもので、さしたる特徴はなく1WTCの露払い役に徹している。足元のステンレス格子パネルくらいしか近づいて眺めるものはない。区画めいっぱいに建てたビルは歩行者の干渉をことごとく拒絶する。つまらないものだ。


WTC Transit Hub / Santiago Calatrava (建設中)

 
魚の骨のような白い躯体が目に留まった。こんな造形をつくるのは奴しかいない、と思ったらまさにサンティアゴ・カラトラヴァ設計の建物だった。用途は不明だったが、調べてみると地下鉄の乗換駅を含む複合施設らしい。外観はほぼ仕上がっているようで今年中にもオープンしそうな気配ではある。
ところでなぜこの形なのか、説明するのは簡単だ。「カラトラヴァがやったからだ。」それに尽きる。

4WTCは槇文彦氏の設計で完成しているので行こうかと思ったが、妻の顔が寒さと無関心のため硬直してきたので、僕らは次の目的地へ向かうことにした。
予定ではWTC駅に行くつもりだったが入口が見当たらなかったため、隣のPark Pl駅から地下鉄E線に乗って34st駅まで向かった。ここからハイラインまで少々歩く。


James A. Farley Post Office / McKim, Mead & White (1912)


1982年に郵政長官の名が冠されたジェームズ・ファーレー郵便局は1912年竣工、コリント式列柱をもつボザール様式建築で、アメリカの歴史建造物にも指定されている。設計者のマッキム,ミード&ホワイトは19世紀末から20世紀中盤まで活躍したアメリカを代表する建築事務所で、ニューヨークを軸足にボストン・ブルックリン等に多くの記念碑的建築をボザール様式を用いて設計している。それにしても列柱に圧倒された。日本の擬洋風建築とは規模が違う。中には入らなかったが、エレガントなホワイエは見ておくべきだった。

10 Hudson Yards / Kohn Pedersen Fox (建設中)
 


完成パース(hudsonyardsnewyork.comより)

4日目のエンパイアステートビルから見えたハイラインの始点にまさに建てられようとしているこのガラス張りの超高層は、10ハドソンヤーズと呼称されている。設計はKPFで、主にアパレルブランドのCOACHが入居する予定となっている。一見ありふれたガラスのスカイスクレーパーだが、足元はNYの新名所、ハイラインとつながる。計画ではこの付近一帯が「ハドソンヤーズ」と呼ばれる再開発地区に指定され、オフィス、商業施設、コンドミニアムミュージアムを含む六本木ヒルズ東京ミッドタウン規模の複合開発が予定されている。KPFは日本では六本木ヒルズの外観デザインを手掛けたことで知られるが、大規模都市開発手法を作り上げていく上で森ビルと相互に刺激しあったのだろう。建物の外観もどこか虎ノ門ヒルズに似ている。有名な建築家だけでなく、組織の設計者、デベロッパーなど都市開発に関わる企業を注意深く探っていくと、意外なところで繋がるなど面白い発見がある。

参考:虎ノ門ヒルズ(森ビルより)



ハイラインに入る前に近くの喫茶店で休憩をとった。この店では10ハドソンヤーズの現場で働く作業員の方もよく出入している。妻はカフェラテを、僕はエスプレッソを注文した。寒さでかじかんだ手に温かかった。


The High Line / James Corner Field Operations and Diller Scofidio + Renfro (2009)

 
何はともあれ、ハイラインだ。もともと貨物鉄道線路として活躍し、廃線とともにスラム化した高架路を「アグリテクチュア(農築)」というコンセプトのもと再生させたハイラインは、ニューヨークの新名所として人気を博している。
僕らは北端のデッキから入った。風はまだ冷たく、のんびり散歩という気分ではなかったが、それでも歩く人は絶えない。

 
ところどころデッキが枝分かれして見せ場が設けられている。

 
水飲み器やベンチは鉄道・人の流れというコンテクストを意識してデザインされていた。この細部まで行き届いたデザインが、全体の完成度を高めるのに一役買っている。

やがてハイラインでまず一番目に見たかった建物が姿を現した。


HL23 / Neil Denari (2009)
 
建築家ニール・ディナーリ初の独立した実作であるHL23は都市生活を謳歌するニューヨーカーのための高級アパートメントで、ハイラインにもたれかかるような形で上階が出っ張っている。ニール・ディナーリは東京国際フォーラムの斬新なコンペ案(3等)のほか多数のコンペ案やイメージで知られる建築家で、日本では知る人ぞ知るといった感があるが、数々の大学で教鞭を執りハーバードの客員教授も務める彼は、アメリカではザハやレムと並び賞されるほどの建築家である。僕がニール・ディナーリを知ったのは週活のとき、僕の描いたドローイングをみた当時の面接官(今の会社の課長)が「君の作品はニール・ディナーリのようだ」と評してくれたのがきっかけだった。そんなわけで、この寡作なアーキテクトの建てた実際の建築を見ることはこの旅の密かな楽しみだった。

 
ハイライン側に面する壁面はステンレス製の凹凸をつけた外装パネルで覆い、皮膚のような表情が与えられている。またガラスのカーテンウォールには内側の斜材を隠すための有機的なブレースのパターンが描かれている。このフェイクが果たして正しいのかどうか正直なところよくわからないけど、建物のニューロンのような有機的なイメージを印象付けるには効果的だ。


立面図(archdiaryより)

驚くことに、この建物はハイラインを越境している。ハイラインの法規上の扱いが気になるところ。



段状になったところは学生らしき人たちが思い思いの時間を過ごしていた。近くに大学があるらしく、そのほかにも複数の建物をハイラインは繋げている。
こうしてみると日本の駅前に数多くつくられた歩車分離のペデストリアンデッキを思い出すけど、日本のそれよりも積極的に使われている感じがする。「駅への動線」にしてしまうと実用重視で慌しく走る人なんかもいる殺伐とした場所になることが多いが、ここは純然たる観光地として作られているために、行きかう人々ものんびりと歩き、スマホで植物や風景を撮ったりしている。何よりウッドデッキというのが足にも見た目にも心地よい。
またニューヨークの街路にはどこでも必ずゴミが落ちているが、ハイラインにはゴミがほとんど落ちていなかった。デザインは人の振る舞いを左右するのだ。
しばらくすると第2、第3の目的の建築が見えてきたが、妻は寒いからチェルシーマーケットに行くというので、僕らは1時間ほど別行動をすることにした。


IAC Building / Frank O Gehry (2007)

 
今日2回目のゲーリーは、ドレープのようなひだをもつ白いかぼちゃのようなビルだ。もともと外装をチタンで考えていたらしいが、クライアントの意向で全面ガラス張りに変更された。白い部分は外装パネルではなく、全てガラスにシートを貼っている。サッシではなくドットプリントのグラデーションによって透明/不透明部分を生み出すことで、「窓」の概念に挑戦しているようにもみえる。もしくはガラス、サッシ、外壁で区分された建築の構成要素に対するアンチテーゼかもしれない。しかし、このガラス割はよくつくったと思う。


せっかくなので中に入ってみたが、突飛なアトリウムや複雑な内装があるわけではなく、オーソドックスなロビーだった。特殊な外装に資金を使い果たしたとみえる。とはいえ外観が攻めに攻めているため、基準階の家具配置も機械的な配置ではなく面白いことをしているようだ。


100 Eleventh Avenue / Jean Nouvel (2010)
 


フランスの建築家ジャン・ヌーベルが設計した23階建てのアパート、100イレヴンスアヴェニューはIACビルの隣に建っている。ゲーリーの隣にヌーベルとは、また凄い組合せだ。
特筆すべきファサードは窓枠をモンドリアン風に重ねたようなもので、数種類の色のガラスが嵌められている。それも微妙にずらしながら配置されるため、表情は近代的なビルにありがちなのっぺりとした冷たさがない。

 
窓枠のアップ。ねじれたような窓枠に加え、ガラスの面もランダムにねじれている。隙間のシールはやや甘い。恐らくいくつかの単位で構成されているみたいだが、同じサイズでもガラスの出入りが違うなど、いくつのサッシがあるのかぱっと見てわからない。


せり出した窓枠は小口にパネルが貼られ、裏の鉄骨下地で支えられている。鉄骨も相欠きでボルトで留められており、見附幅は窓枠と揃えられている。さすがに見せ場だけあってディテールに抜かりがない。

 
見上げれば植栽のポットが浮いている。自動灌水はあるんだろうか。外壁も内壁も天井もサッシで気が狂いそう(笑)

 
裏側はレンガタイルで覆われ、モダンなファサードと対照をなしている。
これだけ個性の強いファサードをもちながら、米LEED(日本でいうCASBEE)認証ビルというのが凄い。


再びハイラインに戻る。まだ妻と合流するには時間があるので、少し先のホテルを見に行くことにした。


ハイラインにはいくつかの建物が跨っている。その中をすり抜けていくとまた青空が広がる。なるほど、このシークェンスは飽きない。


一段下がった部分にはハドソン川を望むカフェテラスがある。春や秋に一息つくには最高のロケーションだ。

 
枕木でできたビーチチェア。線路の上に跨り、飾りの車輪がついている。この演出がにくい。


The Standard Hotel High Line / Ennead Architects (2009)
 
ザ・スタンダードホテルがNYで目を付けた土地は、なんとハイラインの上だった。ジェームズ・ポルシェック率いるエンニード・アーキテクツはこの困難な立地を逆手にとり、コルビュジエマニフェストを受け継ぎつつ、現代的な方法でハイライン上のホテルを築いた。ガラスのカーテンウォールによって開放された外壁面は、2色のカーテンを交互に配することでこの手のビルにありがちな硬直性を回避し不均質なファサードを生み出している。意図的に表層を操作をするのではなく、使い手のカーテンの引っ張り具合をそのままファサードにするというのは斬新で面白い。


このカーテンの効果を最大限に生かすために、スラブは外観に影響しないよう極力薄く作られている。こんな薄くて二重床は考えにくいが、ホテルで直床は遮音性能上ありえない。仮にスラブ150mm、置床100mm、天井100mmとしても350mmは必要。うーんと思い室内画像を検索すると、カーテンボックスが折上がり、床は立ち上がりなしということが判明。カーテンファサードのためのディテール、とても納得した。高所恐怖症だったら足がすくみそうな部屋だ。

 
室内画像(Tripadvisorより)とネタ記事
このハイラインとハドソン川を望む眺めは魅力的だが、逆にハイラインを歩く観光者からも見られているということには注意しなければならない。現地のサイトではオープン直後にネタにされていた。



妻とチェルシーマーケットで待ち合わせたが、ハイラインから入ることはできず一旦地上に降りた。チェルシーマーケットは古い倉庫をリノベーションした商業施設で、飲食店からグッズショップまで幅広く取り扱っている。彼女はめぼしい店を見つけていて、二人で2種類のスープを買い建物内の腰掛石に座って飲んだ。英国風クラムチャウダーとロブスターのスープだった。冷えきった身体に熱いスープがありがたかった。そしてとてもうまい。


外には安藤忠雄氏が内装を手掛けた「Morimoto」があるが、予約なしでは入れないというほどの人気店。のれんのはためき具合からこの日の気候がよくわかる。寒い。

またハイラインに上り、先ほどのスタンダードホテルを過ぎるとデッキが途切れている。楽しいハイライン散策も終わり、いよいよハイラインの終点、ホイットニー美術館に到着した。


Whitney Museum / Renzo Piano (2015)
 


昨年5月にオープンしたばかりのホイットニー美術館、設計はレンゾ・ピアノで、パリのポンピドゥー・センターや銀座のエルメス関西国際空港なんかで日本人にはなじみのある外国人建築家のひとりだ。旧館はマルセル・ブロイヤーが手掛けた段状のファサードが象徴的な建物だったが、新館もその段状を踏襲しつつ斜めにずらしたりホワイエの天井を斜めにしたりと複雑な形態になっている。1階を支えるのは細いCFTの柱、ロッドで吊られたガラスのカーテンウォールは透明で、どちらも高度なエンジニアリングの賜物だ。


細枠の回転ドア

ニューヨークと回転ドア
余談だが、ニューヨークの大規模な建物のエントランスには回転ドアが多い。ホイットニー美術館、シーグラムビル、エンパイアステートビルetc...大型施設の9割以上は回転ドアを採用していた。気になって少し調べてみると①建物内部の熱の損失を防ぐため、②風圧で開かないことがない、③防犯のため の3つの理由からきているそうだ。4枚の回転扉は外部と内部が必ず1回断絶されるため、暖かい空気が外部に逃げにくいのに加え、冷たい風が内部に吹き込むということはない。また超高層ビルの足元で起こりやすいビル風によって開閉に支障をきたすこともないので、マンハッタンに適している。そして回転ドアは一度に多くの人間が出入できない・素早く出ることができないため、犯罪者が逃走しづらいという。そのメリットの反面、火災時なんかの避難も遅くなるわけだが、そのときはハリウッド映画でよく見る「体当たりでガラスをブチ破る」という奥の手があるので特に問題ないのだろう。(最近のビルは二重ガラスだから破るのは難しそうだ。)
日本のビルは風除室を設けて両引きの自動ドアを2組設けるのが一般的となり、回転ドアは普及しなかった。それでも優れた気密性のために大型ビルやドーム建築などでしばしば用いられてきたが、2004年に六本木ヒルズで起きた挟まれ事故の影響もあり、回転ドアはますます敬遠されてしまった。また同じ米国でも西海岸の方は、回転ドアの方が珍しいようだ。
グロピウスが提唱した「インターナショナルスタイル(=世界中どこでも同じビル)」も、細部に土地柄が滲み出す。そうした細部を拾っていくのも建物の見方のひとつだ。

こちらも階ごとに異なる展示を行っているようなので、まずはニューミュージアム(4日目)同様にエレベーターで最上階に上る。


建物はところどころ外部に出られるようになっており、ハイラインやハドソン川ダウンタウンが見渡せる。先ほどのザ・スタンダードホテルもよく見えた。

 
最上階の常設展はポロックワイエスイサム・ノグチ他様々な近現代アート作品がみられる。ここホイットニーは特にアメリカンアートを中心にコレクションしており、そのあたりの知識が薄いと難しいところもあるが、やはりエネルギッシュで面白い作品が多い。


こちらの作品は個人のロッカーをキャリーバッグ用のバンドで縛っており、端のロッカーなんかは押しつぶされて使えなくなっている。過剰なセキュリティ社会に対する皮肉だろうか。


ロバート・ゴバーの「Newspaper」という作品。ハッキリ言ってバカにしている(笑)この作家は壁から足だけがはえたような彫刻作品なんかも作っているが、千住博氏も著書『ニューヨーク美術案内』で「わからない」と漏らしている。ただこういう作品を前にすると、否応なく見る側のスタンスが問われる。

 
チェイニー・トンプソンの作品は機械的なパターンが見えるだけだが、近づいてみると恐ろしい執着で描かれたことに気づく。

 
こちらの作品なんかただ格子状に筆を走らせただけに見えるが、普通の順序で描くとこのように重ならない。描き方を想像すると、一回描いた後に再度筆を置き、順序を部分的に修正していくほかない。狂気としとか言いようがない。


天井に目をやれば、展示壁を吊るためのレールがグリッド状に仕込まれていることがわかる。展示空間の設計者は作品に引き(全体を見るための距離)をとりつつ緊密に作品群が観賞でき、なおかつ快適に歩行できる距離をとてもうまく設えていた。作品について熟知しないとできないプロの仕事に、頭が下がる思いだ。


下階はフランク・ステラの個展だった。とにかく巨大でエネルギッシュな立体作品が多い彼だが、平面作品はあまり知らなかった。この横長の作品"Damascus Gate (Stretch Variation III)"なんかは観光バスよりも大きく、横幅15mだそうだ。

 
ゆうに人間のサイズを超える作品を大量に制作するステラだが、ただ廃材を適当に繋げているだけではないことがわかった。溶接、ボルト留めなど、まるで工業製品をつくるような手つきで色とりどりの金属片を組み合わせていくそのプロセスはどこか建築的で、ゲーリーの作品にも通じる奔放さとテクノロジーの融合を予感させる。近年は3Dプリンタ―で作成した有機的な形態を取り入れた作品も登場し、今後ますます注目される作家の一人であることは間違いない。ファンになってしまった。
こうして写真を並べてみても、作品が巨大すぎて人間が逆に模型みたいに見えてしまう。


下に続く階段には数々の電球でできたアートが吊り下がっている。単純だが綺麗だ。単純なものほど心を打つ。


1階まで下りると、ホワイエには夕日が差し込んでいた。西日にはロールスクリーンが役に立つ。


この書棚、本もろとも買いたい。置く場所ないけど。


美術館を堪能した僕らは別行動をとることにした。
僕は前日に行く予定だったクーパー・ユニオンに、妻はマリベルのチョコレートを買いに、それぞれ向かった。


One Jackson Square / Kohn Pedersen Fox (2009)

波打つような個性的なファサードを持つワン・ジャクソン・スクエアはKPF設計による高級アパートで、高い部屋では1室2400万ドル(約30億円)ほどするらしい。ひぇー。



地下鉄の壁に容赦なく埋め込まれる配管類。これごと美術館に置いたらアートだな思う。アートだよね?フランク・ステラなら多分そう言うよ。
14St駅から地下鉄L線に乗り14St-Union Sq駅で6番線に乗換え、Astor Pl駅で下車するルートで、クーパー・ユニオンを目指す。Astor Pl駅に着いた時は日が傾き始めていた。


41 Cooper Square / Morphosis (2009)

 
モーフォシスのトム・メインが手がけたクーパー・ユニオンの校舎、41クーパー・スクエアはその奇矯な姿を目の前に晒していた。ステンレスのパンチングメタルで覆われた外観が夕日に照らされ鈍色に染まる。真ん中にはいびつな深い切り込みが入り、ガラスが覗いている。1階レベルではV字の柱が上階を支え、壁面は斜めのガラスで覆われている。ついに来た、という感慨と興奮、そして徐々に日が沈む寒さで不意に震え上がる。中にはさすがに入れないとしても、外観だけ見たいという一心で、獲物の隙を窺う野良犬のように建物を一周した。


このような端部は通常納まらない場合が多いが、考えて納められている。


裏側は大通り側ほど彫刻的ではないが、それでもパンチングメタルをうまく使って動的に見せている。


側面は搬入出口で、床のスリット側溝が変えられている。壁は杉板型枠をアクセント的に用いていた。


斜めのRC柱はクラックがピシピシ入っている。3次元的にモーメントがかかってるのだろう。無理もない。計算で理論上成立しても、本物の構造物にはあらゆる力学が働き、しかも嘘をつかない。柱の周りには日本みたいに巾木も柵も頭上注意喚起のクッションもない。このおおらかさは好きだが、訴訟大国のアメリカで大丈夫なんだろうか。


上りたくなる絶妙な傾斜。外壁清掃のためのトゲが取り付けられている。

 
スリット見上げ。型枠には4×4のピーコン穴がある。コンパネもサイズが日本と違うかもしれない。

この建築が画期的なのは、ただ変わった外観や迷宮的なアトリウムをもつということだけではなく、先も出てきたLEEDのプラチナ認証を受けているスーパーエコロジー&エコノミービルだということだ。今後、環境問題に関するトピックは世界的にますます重要な課題として認識されてくる。その中で建築デザインにできることのひとつを、テクノロジーを駆使したサスティナビリティ建築として、41クーパー・スクエアは具体的な形で提示している。
内部の見学は定期的に一般向けツアーがあるらしいので、次は是非その機会を狙っていこう。


The Standard East Village / Carlos Zapata (2008)
 
41クーパー・スクエアの2軒隣にあるザ・スタンダードホテル・イーストヴィレッジ。この大胆な曲面ガラススクリーン、白いグラデーションを一目見た時「もしかしてヤツ(ゲーリー)か?」と思ったが、違った。建築家の名はカルロス・ザパタというベネズエラ人で、ベトナムビテクスコ・フィナンシャルタワー(2010)など巨大建築も手掛ける実力派だが、恥ずかしながら存在を全く知らなかった。竣工年からいくとゲーリーのIACビルの1年後なので時期的にパクったとは考えにくいが、それにしてもこのつるんとしたグラフィカルなファサードは雰囲気がよく似ている。ザ・スタンダードホテルというブランドは、世界各地にその土地のコンテクストを生かした個性的なホテルを生み出しているらしいことがわかった。一度泊ってみたい。


一通り見て満足したので、ホテルに戻ることにした。外気温は既に氷点下、超高層ビルが林立する中心部は、絶えずビル風が顔に冷たい息を吹きかける。
ふと、前日の夜にみた光景を思い出した。きょうこ氏と別れホテルに向かう道すがら、ロックフェラーセンター近くに座りこんでいた黒人のホームレスに「おい、腹減ってないか!?」と声をかけた白人は、持っていたマクドナルドの袋ごとそのホームレスに差し出した。ホームレスは「ありがとう」と言いそれを受け取った。そんなやりとりが、まさに目の前で起きたのだ。路上に座る他者に対して、自分はそんな振る舞いができるだろうか、信仰があればできるだろうか、いや恐らくできないだろう。
ニューヨークの冬は寒い。様々な場所から様々な目的を持った様々な人種が集うこの都市でも、冬の寒さをみんな知っている。だからこそ他者に対し温かい、という側面もあるのかもしれない。
僕は都市のこと、アートのことを少しばかり話すことができるが、あの白人のように、あの場で飢えた誰かを救うことができるのか。自問自答は続く。
明日がくればこの都市を去らなければならないが、僕にできるのは、この動的な都市の今の姿について可能な限り記述することくらいだ。
だから記憶し、記録する。

でもあの名も知らぬ白人には、まだ届きそうにない。

(6日目に続く)